本当
本当 「おやおや、まさかこんなところできみに会うとはね」
駅から出てすぐ、どこからともなく聞き覚えのある声が耳に入って、飛雄馬はギクリと身を強張らせ、足を止める。
まさかこんなところで会うなんて、という驚きと、なぜわざわざ呼び止めたんだという疑問を同時に抱きつつ、飛雄馬は、花形さん、と相手の名を呼び、振り返った。
「伴豪傑とでも会っていたのかい」
「べ、別に花形さんには関係ないだろう。花形さんこそ東京で何をしているんですか」
飛雄馬は伴の名前を出されたことに、些か苛立ちを覚えながらも隣に並んだ花形の顔を見上げる。
「父の仕事の関係でね、フフフ」
「ねえちゃんは花形さんが来てくれると喜ぶと思いますよ」
「なに、そこまでゆっくりする時間はない。お会いしたいのはやまやまだがね」
「…………」
人身御供、というと言い方は悪いが飛雄馬は姉の名を出し、注意をそちらに向けようとしたが、花形に軽く一蹴され、あまりの気まずさと姉に対する申し訳なさから口を噤んだ。
それで偶然おれと出会ったというのか。
奇妙な縁で繋がっている、というのはこういうことを言うのだろうか。
「きみは今からマンションに帰るのかい」
「は、はあ……まあ、そんなところです」
当たり障りなく返したところに、道行く女学生らがあの人、阪神の花形さんじゃない?と囁き合うのが聞こえ、飛雄馬はあえて目の前の彼から視線を外した。
そうして彼女らが、手帳とペンを片手に花形さん、サインお願いしま〜す、と黄色い声を発しながら距離を詰めてきたのを察し、飛雄馬はこれ幸いとばかりに人混みに混ざり歩き出す。
渡りに船とは正にこのことだろう。
彼女たちのおかげで助かった──。
そう、感じたのも束の間、待ちたまえ、と聞き覚えのある声が追いかけてきて、飛雄馬は歩く速度を速めた。
すれ違う人々が、なんだなんだ?と怪訝な声を漏らし、あれ巨人の星と阪神の花形じゃないか?と上ずった声を上げる。
花形もこの状況を察してか、星くん!とは呼んでこない。そんな配慮をしてくれるより追うのをやめてくれ、と叫びたいのを堪え、飛雄馬はほとんど疾走状態で人の群れを掻き分け先に進む。
クラウンマンションまではあと少し。
しかし、このまま帰宅して妙な騒ぎになったりはしないだろうか。マンションまで押しかけられたらねえちゃんはおろか他の住人にまで迷惑がかかってしまうのではないか。
そう考えると、少し遠回りをして──。
考えた飛雄馬だったが、ふと気付けば後ろを追ってきていた花形の気配が消えていることに気付く。
あれほどざわついていた人々も、何事もなかったかのように普段の落ち着きを取り戻している。
「…………」
飛雄馬はここに来てようやく歩みを止め、大きな溜息を吐くと再び、マンションへの道のりを歩き出す。
まったく、花形さんにはいつも翻弄されてばかりだ。
今頃彼はどこかで高笑いしているに違いない。
相変わらずよくわからない人だ、と飛雄馬は花形のことを頭に思い描きつつ、到着した自宅マンション入口のガラス扉を開ける。
すると、そのエントランスには先程姿を消したはずの花形が立っており、飛雄馬はあっ!と驚きのあまり声を上げ、思わず後退った。
「おかえり、星くん。思っていたより早かったじゃないか」
「な、なぜ……花形さんが、ここに……」
「きみが急にどこかに行こうとするからさ。フフフ……まだ話の途中だったじゃないか」
「は、話って?」
「…………」
尋ねた飛雄馬だったが、ふいに花形が歩み寄ってきたために思わず身構える。
「なに、大したことじゃない。驚かせてすまないね」
「…………」
去り際に花形はそう言って、得意の笑みを浮かべると飛雄馬の背後にある扉を開けた。
飛雄馬は皮肉のひとつでも言ってやろうかと通り過ぎたばかりの花形を振り仰ぎ、彼の顔を見上げたが、「今度はぼくと食事に行ってくれると嬉しいがね」と囁かれ、再びその場に固まる羽目になる。
花形さんは、おれが伴と夕食を一緒に食べたことを知って──?
しかし、この期に及んでなぜそんなことを。
これもまた彼得意の揶揄か。
ああ、惑わされてはだめだ。
あの人を信じてはいけない。
飛雄馬は首を振り、花形に対し抱いた疑惑の念と負の感情を払拭してから扉をくぐり外に出た彼の姿をガラス越しに見つめる。
彼の言った、父の仕事の関係で東京を訪れたということも果たして本当のことなのだろうか。
伴とのことだってただ単に鎌をかけてきただけなのではないだろうか。
伴以上に付き合いの長い花形さんのことを、おれは何も知らないし、何もわからない。
おれは花形さんに対し、不思議な人、という印象を抱くのみだ。
次の試合で、今日のことを思い出さないといいが、と出入口のガラス扉に背を向け、自室に戻るために花形の囁いた言葉の真意をひとり考えつつ、歩み出した。