本音
本音 来客を告げる玄関先のチャイムが鳴り、飛雄馬はもうこんな時間か、と手首に巻いた腕時計に視線を遣ってから読みかけの漫画週刊誌を閉じた。
玄関を開ければすぐリビングという造りの部屋は、些か暮らしづらいように今更ながら思う。
東京タワーのほとんど正面に建てられた新築のマンション。いつも見上げてばかりだったあの高い電波塔を一望できるというのは最初こそ物珍しく、壮観であったが、今となっては風景の一部でしかない。
慣れとは恐ろしいものだ。
「どうぞ、入ってください」
扉を開けつつ、飛雄馬は訪ねてきた青年を部屋に招き入れる。
「どうも」
口元に薄い微笑みを浮かべた彼が扉の隙間から顔を覗かせ、そう、呟いた。
「…………」
飛雄馬は無言のまま、玄関先で靴を脱ぐ青年を見つめる。彼──花形さん、は花形モータースという日本車の輸出や外国輸入車の販売、修理を請け負う会社の一人息子といつだったか伴が話してくれた。
伴も同じく自動車工場の跡取り息子だそうだが、規模も業績も花形さんの会社の足元にも及ばんと言っていたか。花形さんの名を冠したスポーツカーが日本国内だけでなく、諸外国でも飛ぶように売れていると聞いたこともある。
靴を脱ぐ所作ひとつ取っても、伴とは大違いで、今更ながら彼がうちの工場など花形の親父さんがその気になればすぐ潰してしまえるわい、と言っていた意味がここに来てわかったような気もする。
「ねえちゃん、もうすぐ帰ってくると思いますよ」
花形にソファーに座るよう勧めてから、飛雄馬はコーヒーを入れに台所に立つ。
今日は試合の組まれていないいわゆるオフと呼ばれる日だが、飛雄馬は外出もせず、親友の伴と会うこともなく一日をこのマンションの一室で過ごしている。
急な休みが出てしまい、どうしても出勤してほしいとの連絡を勤め先のガソリンスタンドから受けた明子が弟である飛雄馬に花形さんをよろしく、とそう、言い残して出て行ったからだ。
実を言えば伴がここを訪ねてくる予定だった。
けれども、飛雄馬は姉の思いを汲み、親友に断りを入れると花形が来るのをひとり、広い部屋で待っていたのである。
むろん、伴には花形さんが来るから、と馬鹿正直に伝えるはずもなく、急な用事を思い出したから、と言うに留めた。
「明子さん、は、アルバイトに?」
「ええ、急に呼び出されたんです」
やかんの中の沸いた湯でコーヒーを入れ、飛雄馬はソーサーに乗せたカップを、リビングに置かれた小さなガラステーブルの上に載せた。
「それは……申し訳ないことをした。てっきり、明子さんがいらっしゃると思ったものでね」
「ふふ、玄関先にはおれの靴しかありませんでしたよ。花形さんでもそういうことがあるんだな」
飛雄馬は自分専用のマグカップに入れたコーヒーに口を付けつつ、台所から花形の待つリビングへと足を踏み入れる。
恋とは、それほどまでに恐ろしいものなのだろう。
周りが見えなくなって、想い人のこと以外何も考えられなくなる。
飛雄馬は花形満という男に、人間臭さを見て、小さく吹き出すと、彼が座るソファーの端へと自分もまた、腰を下ろした。
「きみが寮を出て、明子さんとふたりで住んでいるという噂を耳にしたときには驚きもしたが……」
「それなりに、やっていますよ。とは言え、家のことはねえちゃんに任せきりで……悪い弟です」
コーヒーの二口目を啜り、飛雄馬は今はガソリンスタンドのアルバイトに精を出しているであろう姉のことを頭に思い浮かべる。
少しもじっとしていてはくれない働き者のねえちゃん。朧気にしか覚えていないかあちゃんも、きっとそうだったに違いない。
「いつだったか、彼女がぽつりと漏らしたことがあってね」
コーヒーを啜った花形が飛雄馬に語りかけるような口ぶりで話を続ける。
自分の家なのに伴さんがああも訪ねてきては気が休まる暇がない、だから、働きに出ることにしたの、と。
「え?」
飛雄馬は花形の言葉に、コーヒーで暖まったはずの体が、急速に冷えていくのを感じる。
ねえちゃんが、そんなことを?花形さんに?
伴が訪ねて来るのは迷惑だった?
そんなこと今まで一言も……。
マグカップを持つ手が震え、飛雄馬は、目の前が真っ白になっていくのを感じる。
そんな、それならおれだって、花形さんを部屋の中に招かれるのは困る。ここは元はと言えばおれの家で…………家のことをやってもらうためにおれはねえちゃんを長屋から連れ出したのか?
とうちゃんから離れたい一心で、いや、オズマの一言におれは頭を殴られた気がして──それで、おれは…………。
「フフ……冗談。きみは姉がそんなことを言う人だと思うかね。少し、からかってみたくなったのさ」
「な……っ、」
クスクス、とコーヒーを啜り、意地悪く笑みを溢す花形の横顔から飛雄馬は視線を逸らし、でも、甘えていたことは事実です、と返した。
「………………」
「伴は古くからの知り合いだから、ねえちゃんもおれと同じことを思っていると思っていた。伴のことは友人だと……でも、そうじゃない。ねえちゃんは優しいから今まで我慢し続けてきたんだろう」
「………………」
「大切なものは、失ってはじめてわかる……耳に痛い言葉だ」
「星くん」
ふいに花形に名を呼ばれ、飛雄馬は伏せていた顔を上げる。すると、こちらを見つめていた花形と目が合い視線が絡んだ。
こんなに、至近距離で互いを、見つめたことがこれまであっただろうか。
なんて、澄んだ目をしているのか花形さんは。
「…………」
「星くん、ぼくは──」
「すみません、遅くなってしまって。すぐ支度しますから」
花形の言葉を遮るように玄関の扉が開いて、帰宅したらしい明子が顔を出す。
「…………」
「明子さん、ぼくは外でお待ちしています。星くん、コーヒー美味しかったよ」
何の躊躇なく立ち上がり、花形はそのまま飛雄馬と明子を残し、部屋の外へと出て行った。
「飛雄馬、ありがとう。花形さんと少し出てくるわね」
「うん、気をつけて」
それから、アルバイトで得た給金で購入したらしき余所行きの服を着て出て行く明子を、飛雄馬は黙って見送ると、誰もいなくなったがらんとした部屋で、ひとり冷たくなったコーヒーを啜る。
今から伴を呼ぼうか。いや、今から呼んだところで自由になる時間など限られている。
それに、迷惑だろう。伴だって、たまには、ひとりにさせてあげなければ…………。
飛雄馬は込み上げる涙を、コーヒーと共に喉奥へと追いやると、花形が使用したカップを手に台所へと立つ。コーヒーは綺麗に飲み干されており、飛雄馬は彼らしいな、とそれだけでほんの少し、心が軽くなった気がした。