本降り
本降り ぽつ、ぽつと降り出した雨が本降りとなり、しまった!と飛雄馬は昇降口で靴を履きはしたものの、それから先に進めず小さく悪態を吐いた。
午後から雨、とラジオは朝から今日の空模様を伝えていたが、どう見ても降りそうにない晴天で、傘を持ってくるのを忘れた生徒らも大勢おり、今になって青雲高校の正門前には運転手付きの高級車が長い列を作っている。
いつも登下校を共にしている伴は何やら用事があるので早退すると今朝の時点で言っていた。
しばらくすれば止むだろうか、参ったことになったなと飛雄馬がどんよりとした厚い雲に覆われた空を仰ぎ見たところに、飛雄馬、と呼ばれ、慌てて視線を下げた。
すると、傘を差し、昇降口の前に立っている何者かの姿が目に入って、飛雄馬はねえちゃん!と声を弾ませる。
「よかった、間に合ったみたいね」
ニッコリと微笑む姉・明子の足元はいつものつっかけ履きで、来る途中、濡れた土を跳ね上げたかところどころ黒く染みになっていた。
飛雄馬は足が汚れることも構わず、わざわざ長屋から青雲まで訪ねてきてくれた姉の優しさにぐすっと鼻を啜り、目元をぐいぐいと腕で拭ってから、「幼稚園児じゃあるまいし別に来てくれなくてもよかったんだぜ!」とそんな台詞を口にする。
「まあ。そんな、わたしは飛雄馬を心配して──」
言いかけた明子だが、飛雄馬の目元に光るものを目にし、クスッと笑みを溢すと、持ち寄った傘を手渡し、帰りましょう、と続けた。
「ねえちゃん、遠かったろう。長屋からここまで」
ツギハギだらけの傘を開き、飛雄馬は尋ねる。
「うふふ、こんなところ、めったに来ないから新鮮で楽しかったわ」
ふたり連れ立って、昇降口を出たところで、何やら高級そうな着物に身を包んだ恐らく、青雲高生の保護者が明子の頭の天辺から足の爪先までを値踏みするように見てから、どこのお手伝いさんかと思いましたわ──と、冷たく言い放った。
「…………!」
さあっ、とそれを聞き、明子の顔が青ざめる。
「だっ、誰が!ねえちゃんは、わざわざ雨の中──!」
「飛雄馬!」
頭に血が昇った飛雄馬が声を荒げ、更に言葉を続けようとしたのを明子は制し、その場に思い留まらせた。
「ねえちゃん、なんで」
「いいのよ、飛雄馬。気にしてないわ。行きましょう」
涼しい顔でそう言った明子の手前、飛雄馬はそれきり何も言えず、来た道を引き返す彼女の後をとぼとぼと追った。
そうして、正門を出たところで飛雄馬はねえちゃん、ごめんよ、と小さな声で囁く。
それを聞くなり明子は、飛雄馬が謝ることじゃないわ──それより、と悔しさから握った傘の柄を強く握り締める飛雄馬を振り返り、あんなに小さかった飛雄馬がわたしをかばってくれたことが何倍も嬉しかったわ──と微笑んだ。
「ねえちゃん………」
飛雄馬はその笑顔を目の当たりにし、再びじわりと涙の滲みかけた目元を今度は学生帽のひさしを下ろすことでごまかした。
「ふふ、泣き虫飛雄馬」
「な、泣き虫なんかじゃ……」
「今日の夕飯はお揚げが安かったから飛雄馬の好きなきつねうどんにしたの。帰って食べましょう」
「……うん」
飛雄馬は頷くと降りしきる雨の中、泥で足を汚しながら前を行く姉の後ろ姿を見遣る。
そうして、その後をゆっくりついていきながら、ねえちゃんを泣かせず、困らせず済むようおれが頑張らねば──と、誓い新たに今は雲に覆われ、目にすることの叶わぬ巨人の星を傘の生地越しにそっと仰ぎ見た。