夏の日差し
夏の日差し 猛暑。
今日の暑さは何匹もの蝉が耳の近くで羽音を響かせているようなそんな錯覚を起こしてしまうほどだった。アンダーシャツの黒が日の光を集め、やたらと熱を持つ。
そんなさなか、ピッチング練習をしていた巨人軍の一投手である星飛雄馬がどっとマウンドに膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。星!と言うどよめきが選手内から上がり、ざわざわと辺りがざわめく。
「星!」
皆遠巻きに倒れた飛雄馬を見守る中、一人立ち上がり駆け寄る者がある。星と高校時代から苦楽を共にしてきた彼とはバッテリーを組む伴宙太、その人だった。
一息に飛雄馬の体をその大きな腕に抱きかかえ、伴は医務室に行って参りますと叫んで駆け出した。ぽかん、と川上監督を始め選手の皆はその土煙を上げ走り去る二人を見送るだけであった。
チームドクターの待つ医務室に到着し、伴は一刻も早く飛雄馬を診てくれと喚く。顔を真っ赤にし、荒い呼吸を繰り返している飛雄馬を見たドクターは日射病であろう、と言った。この炎天下の中で練習をしていれば無理もない、しかもこの小柄な体なら他の選手より先に限界が来てもおかしくない、と。
「にっ、しゃびょう」
「ああ、しばらく涼しいところで安静にしておけば次第に良くなる」
「よ、良かったあ」
「あとは私に任せてグラウンドに戻りなさい」
「……」
ベッドに寝かされ、その眉を苦しそうにひそめる飛雄馬を伴はちらと見遣ったが、ここでずっと見ているわけにもいかず、ドクターに言われるがままグラウンドに帰ったものの、その後の結果はご想像のとおりである。ろくに捕球も打球も出来ず、散々な結果であった。そんな伴を選手たちは星がいないと元気も出ないかとからかったが、そのとおりである。
星が気になって気になって仕方がないのだ。いくらドクターがそばにいてくれているとはいえ、苦しがってはいないだろうか。水が飲みたいと呻いてはいないだろうかとそういうことばかり伴は考えていた。
午前中の練習を終え、選手らは昼食を摂るためぞろぞろと食堂に向かう中、伴だけは皆とは逆に医務室へと走った。
彼自身、顔は日に焼け真っ赤になっていたがそれどころではない。
「星ぃ!」
名前を叫ぶようにして医務室に入った伴だったがドクターの姿がないことに気付くと、はて?と首を傾げつつも飛雄馬の寝かされているベッドのそばへと歩み寄った。だいぶ熱は下がったか、ここに運び込んだ時よりも顔の赤みは取れており、すうすうと寝息をも立てている。
ほーっ、と伴はその姿を見、安堵の息を漏らす。一安心したせいかこみ上げる涙を手の甲で拭って、伴は部屋にあった丸椅子をベッド付近に寄せると、そこにどっかと勢いを付けて座った。
すると今度は無茶しおって……とふつふつと怒りさえ湧いてきた。この程度で済んだから良かったようなものの、近頃は日射病や熱射病から亡くなる人も跡を絶たないと聞く。死んでしまったら元も子もないのだ。 目を覚ましたら一言言ってやらねば、と伴は目を閉じ、その唇から吐息を漏らす飛雄馬の顔を見下ろす。
「う、う……ちゃん、とうちゃん……とうちゃん」
ふいに飛雄馬は声を上げ、ぐっと眉間に皺を寄せる。実の父である一徹を呼びながらその腕を天井目掛け伸ばす。
「星、大丈夫か!」
「!」
伴がその姿を見、大きな声を出したためにはっと飛雄馬は目を覚ます。その額から鼻筋の横を滑り、汗は頬を流れた。
「……あ、ああ。伴、伴か。驚いた……」
「大丈夫かあ!」
「……そんな大きな声を出さないでくれよ……頭に響く」
額に腕を乗せ、飛雄馬はボソボソと囁くようにして伴に声の音量を下げるように言う。すまん!と伴は慌て、更に大きな声で謝罪の言葉を口にした。
「ふふ、聞き慣れたおまえの声もこういうときは気になるものだ」
「あ、あっ!すまん」
「いや、いいさ……」
言って、飛雄馬は大きく呼吸をする。呼吸のために腹が一度膨れてからすぐにすっと縮んだ。
「めしは、食べられるか」
「めし?もうそんな時間か」
空気を読んだかのように伴の腹の虫がぐうと鳴る。
「……おれはいい。伴一人で行け」
「し、しかし」
「……食いっぱぐれるぞ」
そう言われ、伴は部屋の壁にかかる時計をちらと見上げた。まだここに来てからそう時間は経っていない。
「む、もう少ししたら行くから心配するな」
「……伴、すまんが水をくれ」
「水?」
周りを一瞥すると、近くのテーブルの上にあったステンレス製のピッチャーを伴は見つけるが、中身は相当に温まっているだろうと考え、部屋の外、廊下に設置してある自販機で冷たいものでも買ってきてやろうかと思った。
しかして、その考えを飛雄馬は見抜いていたらしく、「それでいい」と額から腕を外し、伴をその目で見据えながら言い放つ。
「……」
言われるがままに伴は腰を上げ、ベッドの上から体を起こす飛雄馬を横目に見遣る。
「星」
慌てて手を差し伸べ、伴は彼の背を支えるようにして上体を起こすのを手伝った。
「ん……悪いな」
まだ頭が痛むか飛雄馬は額を押さえ、伴の注いでくれたぬるい水の入れられたコップを受け取る。それに口を付け、飛雄馬はゆっくりと中身を口に運ぶ。彼の喉が嚥下のたびに上下し、コップが空になっていくさまを伴は黙って見つめた。
「……」
無言で飛雄馬は空になったコップを伴に突き返す。それを受け取りつつ、伴は「おまえは頑張り過ぎではないか」と苦言を呈する。
「頑張り過ぎ?」
飛雄馬は目を細め、伴の言葉を反芻した。
「ああ、ぶっ倒れるまでに何かしら予兆があったはずだ」
「……」
確かに伴の言うとおりだ――と飛雄馬は倒れた瞬間のことを思い返す。馬鹿に体が熱く、軽い目眩がしたと思ったらそのまま砂埃を全身に浴びた。そうして己を呼ぶ伴の声を遠くに聞きながらここに運び込まれたのだった。
「先輩方に迷惑をかけるわけにはいかんからな」
「迷惑じゃと?ぶっ倒れられる方がよっぽど迷惑じゃわい」
「……」
ふんと伴は鼻を鳴らし、再び椅子に腰掛ける。
「もっとなあ、おまえは自分を大事にせい」
言いつつ、伴は腕を組みぷいと顔を逸らす。言った自分が一番恥ずかしかったのであろう。耳が赤くなっている。
「辛いときは辛いと言え。おまえの親父さんが厳しかったのは知っとるが、ここにはいない」
「自分の体調も管理出来んのか、と。そう言いたいか」
「ばっ、馬鹿を言え!誰もそんなことは言っとらん!!」
喚いて、伴は逸らした顔を飛雄馬へと戻す。その視線があまりに真っ直ぐで、自分の動揺した表情を映す瞳はあまりに澄んでいて、飛雄馬は目を逸らす。
どうしてこの男はおれのを身をそこまで気にかけてくれるのか、と。何が楽しくて、何が嬉しくて、おまえはおれにそこまでしてくれるのか。
「……」
ゆっくりと瞬きし、飛雄馬は一度目を伏せる。
「星、苦しいか」
「ふふ、ちょっと目眩がしただけだ」
「め、めまいじゃと?」
目元を掌で拭って、飛雄馬は深く呼吸をする。
「ね、寝ておけ!星!無理をするな」
伴は再び椅子から立ち上がり、今度はベッドに座る彼の体を横たわらせようとするが、飛雄馬はその大きな腕を躱し、ぎゅっと伴の大きな背に腕を回した。
「はっ!?星!?」
じわっと腕を回した伴の背に汗が滲むのが飛雄馬にも分かる。
「あ、汗臭いぞ」
「ふ……構うか。そんなこと」
伴の胸に顔を埋め、飛雄馬は泣きそうなのを堪えた。やり場のない手をしばし握ったり開いたりと繰り返していた伴であったが、遂に観念したか飛雄馬の背中をぐっと抱く。伴の頬が頭を撫でる。
「おお、相変わらずだな」
突然、背後からそんな言葉をかけられ、二人ははっ!と弾かれたように体を離す。
勢いのままに声のした方を振り返れば、部屋の開いた扉の先にはドクターと川上監督が立っており、二人は監督、と呼んだ。
「体調はどうかね。はは、まあその様子ならだいぶいいだろうな」
「……」
二人は面目ない、とばかりに顔を伏せ、それぞれに目を泳がせる。
「めしは食べたか。間もなく午後の練習が始まるぞ」
ちらと監督は先程伴がしたように時計を仰ぎ、二人にそんな言葉を掛けた。
「あ……」
伴は思い出したかのように時計を見上げ、それから飛雄馬を見た。
視線を察し、飛雄馬は行くといいとばかりに監督とドクターの背後を見遣る。
「ほ、星は」
「おれは」
「星、食欲はないかもしれんが少しでも腹に入れておかないとあとが持たんぞ」
「……」
天下の泣く子も黙る川上監督にそう言われては飛雄馬とて結構ですと首を横に振るわけにもいかず、飛雄馬は伴の手を借りながら部屋の床に足を下ろすと靴を履いた。
そうして二人、失礼しますお世話になりましたと頭を下げ、医務室を出る。
廊下の向こう、窓の外では青葉が風に揺れ、一時だが蝉の喧騒がやんだ。
「伴」
「な、なんじゃあ改まって」
「いつも、すまないな……」
「む……それはおれも同じじゃ。お互いさまじゃあ」
照れ隠しからかがははと伴は笑って、飛雄馬の背を叩く。
「お、おい。冗談きついぜ……伴の力で叩かれたら治るものも治らん」
「あっ!そうだった!」
しまったと伴は目を丸くし、てへへと頭を掻く。ふふと微笑し、飛雄馬はその笑顔を瞳に映しながら、窓ガラス越しに青葉の陰から覗く日差しを手で遮る。まだ夏は終わりそうにない。