平凡
平凡 いつの間にかソファーに横になり眠っていたようで、人の気配を感じた飛雄馬はうっすらと目を開ける。
「あら、起こしちゃったかしら」
すると、姉の明子が微笑みを浮かべ、こちらを見つめており、飛雄馬は、なんだ、ねえちゃんかと寝ぼけ眼を擦りつつ体を起こす。
体には毛布がかけられており、ねえちゃんが近くにいたのはこのためかと飛雄馬は合点し、ありがとう、と礼を述べた。
「疲れてるのはわかるけど、体を冷やしちゃだめじゃない」
「今後は気をつけるようにするよ」
欠伸をし、飛雄馬は明子に、今日の夕飯はと尋ね、背筋を大きく伸ばす。
「今から支度をするところよ。お風呂にでも入ってきたら」
「何か手伝おうか」
飛雄馬が訊くと、明子はあなたのおかげでこんな贅沢な暮らしをさせてもらっているんだもの、家事くらい任せてちょうだいと片目を閉じ、キッチンへと立った。
ここに越して来てからというもの、ねえちゃんは生き生きとしている。
幼い頃からおれの母親代わりをしてくれていたねえちゃん。父ちゃんの顔色を伺い、身を小さくして暮らしていたねえちゃん。おれたち親子の尻拭いに隣近所を謝罪して回っていたねえちゃん。
父ちゃんには悪いが、これからは姉孝行をしてやらないとな……。
鼻歌混じりに野菜を刻む明子の姿を横目に、飛雄馬は浴室に向かうと、沸いていた風呂で髪や体を洗い、その日の汗を流す。
長屋近所の銭湯で顔見知りの住民たちと入る風呂というのもそれはそれで楽しかったし、寮の大浴場で先輩らの話を小耳に挟むことも確かに勉強にはなったが、ひとりでゆったりと湯船に浸かれる風呂は落ち着く。
ひとりになる時間というのも、時には必要である。
「…………」
肩まで湯船に浸かって、飛雄馬は最近急速に距離を縮めつつある橘ルミのことを頭に思い浮かべる。
彼女との付き合いは、おれにとって本当に人間らしい生活を送る上で必要なのだろうか。セントルイス・カージナルスのアームストロング・オズマの発言は、おれの人生観をがらりと変えたことは確かだ。
だからこそおれはマンションに移り住むことを選んだのだ。それは間違っていない。
橘ルミ──プロ野球選手であるおれと噂になることで、彼女は一層話題の人物になるのだろう。
売名行為、その言葉が彼女の態度や言動にちらつかんわけではないが……いいや、考えまい。今は、橘ルミとの甘いひとときに酔わせてもらおう。
頭のてっぺんまでを湯の中に沈めて、飛雄馬はしばらく湯船に浸かったまま父との幼い頃の思い出を閉じた目の奥、脳裏に思い起こす。
硬球を握らされた日のこと、ピカピカの投手用ミットを手渡された日のこと。球の放りすぎで指の皮が破け、血まみれになった日のこと……当時は父ちゃんを恨んだものだが、今となってはどれも皆懐かしく感じるのはなぜだろうか。
そう思うことこそが、独り立ちの第一歩なのだろうか。
「ふぅっ…………」
湯船から顔を上げ、飛雄馬は湯気のもうもうと上がる天井を仰ぐ。
父ちゃんは、今頃、何をしているんだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えたところで何やら浴室の外が騒がしく、飛雄馬は風呂から上がると、パジャマに着替えてからリビングに顔を出した。
「おう、星。邪魔しとるぞい」
「やっぱり伴か」
「ふふ、飛雄馬がいなくなって寂しいんですって」
「あ、明子さぁん、それは言わんでほしいぞい」
マンションに越してくる際、新調したダイニングテーブルの椅子に腰掛けた親友・伴が笑顔を飛雄馬へと向けたが、明子にぽつりと漏らしたらしき愚痴を暴露され、取り乱す。
「ふふ……こっちはいびきに悩まされることもなくなって快適だぞ」
「い、言ってくれるのう」
「なに、寂しいのはこっちも同じさ。伴もうちに越してきたらどうだ。部屋は余っている」
「し、しかし、明子さんは……」
「あら、伴さんなら大歓迎よ」
「う、うぅむ……しばらく考えさせてくれい」
冗談だ、冗談と飛雄馬は考え込む伴を笑い飛ばし、明子もまたそれに乗じるように笑い声を上げる。
からかわれたことに気付いた伴はがっくりと肩を落とし、そりゃないぞい……とぼやいた。
「それはそうと、今日は例のオーロラだかレインボーだとかいう娘のひとりとは会わんのかあ」
「そんなに会っているわけじゃないさ。お互いの都合が合うときにたまに食事に行ったりするくらいなもので……」
「そうかのう。毎日のように会っとる気がせんでもないが、あまりうつつを抜かすなよ」
「言われんでも心得ているつもりさ」
伴の言葉に、少々ムッとしつつも、飛雄馬は濡れた髪を拭いつつ、彼の隣へと腰を下ろす。
今日の夕飯のメニューはカレーらしく、明子が白米を盛った皿にルーを注いでいる。
「今日はカレーですかい。大好物ですわい」
「たくさん作ったからおかわりしてちょうだいね」
皿を受け取りながら、飛雄馬は礼を言い、伴と自分の分を用意した明子が席に着くのを待って、いただきますと手を合わせた。
うまいうまいとまるで飲むかのごとくカレーを口に運ぶ伴に少しは遠慮してくれよと嫌味を言って、飛雄馬は顔を綻ばせる。
「どうしたの、飛雄馬ったら笑ったりして」
「え、いや、伴の食いっぷりに思わず……」
「本当、作り甲斐があるわね」
「おかわり!」
空気を読まず、空になった皿を明子へと差し出す伴を見遣り、飛雄馬は苦笑すると、自分が求めていた生活とは実はこういった質素でありながらも笑いの耐えない温かな家庭なだけなのかもしれない、とそんなことを思う。誰かの機嫌を伺うこともない、四六時中野球のことばかり考えさせられることもない、ただただ平凡な……。
空になった皿を満たすため、飛雄馬は席を立つと、炊飯器から米を盛り、温かで具沢山のカレーを注ぐ。
「美味しい?」
「うん」
明子の問いに頷き、席に着いた飛雄馬はスプーンで掬ったルーと米を口に含む。少し甘めのルーを使い、作られたカレーはそれこそ伴の言うようにいくらでも食べられそうである。
「星があのカージナルスのオズマに何と言われたかは知らんが、おれはそんな星が好きじゃからな」
「ふ……」
伴がカレーをぱくつきながら漏らした飛雄馬は笑みを溢し、自身もまた、一口を頬張る。
「まあ、伴さんったら、まるで飛雄馬の恋人みたい」
「ぶっ!」
「ね、ねえちゃん。変なことを言うのはよしてくれよ」
噎せた伴が用意された麦茶を一息に飲み干し、呼吸を整えると、明子さん、そりゃあんまりですわいと口元を拭いながら情けない声を上げた。
「ふふ……」
何やら意味ありげに笑った明子はごちそうさまと席を立ち、お風呂に入ってくるわねと自室へと消える。
その様子を目で追っていた飛雄馬は、ねえちゃんめ、と悪態を吐いてからカレーを口へと流し込む。
「べ、別にさっきの言葉に深い意味はないぞい。誤解はせんでほしいわい」
「おれがここまでやってこられたのも他ならぬ伴のおかげだからな。感謝してるぜ……」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、鼻の頭を掻く伴を尻目に、飛雄馬も空となった皿を流しへと置いた。
「それが聞けただけで安心したわい」
「ごゆっくり、伴さん」
風呂の支度をした明子がふたりの前を通り過ぎ、浴室へと向かった。
伴と飛雄馬は彼女の後ろ姿をしばらく見守っていたが、ふいに視線を逸らすと、互いに顔を見合わせ、小さく吹き出す。
「また明日、星。いつも夕食ごっつぁん」
「たまには手土産のひとつくらい持ってきてもバチは当たらんと思うぞ」
明子が風呂から上がる前に帰るとするわいと腰を上げた伴を見送り、飛雄馬は再び嫌味を口にする。
「ん、それもそうじゃな……次はケーキでも持参するわい」
「おやすみ、伴」
「おやすみ、星」
玄関先で伴と別れ、飛雄馬は三人分の皿を洗うためキッチンに立つ。そうして、後始末を終えた飛雄馬が、暇潰しにテレビをしばらく眺めていたところに明子が戻ってきた。
「あら、伴さんは?」
「伴なら帰ったよ。たまには手土産のひとつくらい持ってこいと伝えたばかりさ。いつもいつも……」
「伴さん、寮の広い部屋にひとりで寂しいのよ。あなたたちずっと一緒だったし」
「それは、そうだろうけど」
「じき、慣れるわよ。伴さんも。その頃は逆に飛雄馬が寂しくなったりして」
「…………」
長い髪をタオルで巻き、頭の上でひとつに纏めたパジャマ姿の明子が微笑む。それから、キッチンが片付いていることに気づいたらしく、飛雄馬にありがとうと声をかけた。
「明日も早いんでしょう。そろそろ休んだら」
「そのつもりさ。ねえちゃんもいつも伴の分までありがとう」
「いいえ。気にしないでちょうだいね」
「……おやすみ、ねえちゃん」
「おやすみなさい。あったかくして寝るのよ」
はぁい、と飛雄馬は返事をし、自室に籠るとベッドに乗り上げ、布団に潜り込む。
冷たい布団は眠気を削ぎ、目が冴える。
伴に泊まっていけ、と言うべきだっただろうか、と先程別れたばかりの親友のことを思い出しながら、飛雄馬は我ながら女々しいなと苦笑し、大きく息を吸う。
その内に布団に体温が移り、ゆっくりと眠気が全身を支配していく。
こんなとき頭に浮かぶのは例の彼女ではなく、親友、伴の顔で、飛雄馬は自分でも意識せぬうちに彼に依存しているのだな、と小さく、微笑んでから、温かな布団の中で抵抗することもなく眠りに落ちたのだった。