春風
春風 「おーい、飛雄馬くーん」
飛雄馬は、さっちゃん、と自身を呼ぶ少女の名を口にしながら、彼女が駆けてくるのに合わせ、腰を下ろしていた川沿いの土手から立ち上がる。
真新しい自転車に跨り、手を振る少女──サチコに微笑みかけ、飛雄馬は彼女に、今日はひとりかい?と尋ねた。
「うん。誘ったんだけど誰も捕まらなくって。飛雄馬くんは、あら、お取り込み中だったのね」
くすっ、とサチコは自転車に跨ったまま、飛雄馬の傍らでわざとらしく咳払いをするスーツ姿の青年を前に笑みを溢し、今から出掛けるの?とも訊いた。
「いや、久しぶりに会ったからね。少し話をしていただけさ」
「ねえ、伴さん、とか言ったかしら。あなた、飛雄馬くんが大事ならちゃんと顔を出さないと、飛雄馬くん、他の人に取られちゃうんだからね!」
スーツ姿の青年・伴に自転車から降りるなり、大股で歩み寄ったサチコがふいにそんな話を振る。
「さっちゃん。話が見えないけど、どういう意味だい、他の人に取られるって言うのは」
「例えばボクとか!知らないの?女の子は16歳で結婚出来るんだから」
胸に手を当て、ふんぞり返ったサチコを前に、伴が吹き出し、すまん、と取り繕う。どうして笑うの?とサチコが腕を組み、笑いを堪えきれず、肩を震わせる伴を睨んだ。
「ふふっ。さっちゃんが16歳になる頃にはおれはもうだいぶおじさんになってるんじゃないかな。それに、きっとその頃にはさっちゃんにも気になる人が出来ていると思うよ」
「飛雄馬くん以外にそんな人現れるもんですか。ふんだ。まあ、いいわ。またね、飛雄馬くん。アタシ、父ちゃんからおつかいを頼まれてたの」
サチコはそう言うと、短いスカートの裾がひらりと捲れるのをまったく気にする様子もなく、自転車に跨ると、手を振りながら去って行った。
飛雄馬もまた、彼女に手を振り返し続け、その姿が見えなくなってから再びその場に腰を下ろした。
「まったく、お転婆じゃのう。今時の子と言うべきか」
「ふふ、元気でいいじゃないか」
「しかし、16歳、か。わしらが出会ったのも星がちょうどそれくらいの年じゃったな」
「ああ。あれからもう10年……いや、もっとか。あっという間だったな。振り返ってみれば」
「もう、一緒に野球はできんが、わしはずっと星のそばにいるつもりじゃし……その、これからは頻繁に顔を出すことにするわい」
照れ臭そうに視線を逸らし、鼻の頭を掻く伴の横顔を見遣り、今度は飛雄馬が吹き出すと、何の心配をしているんだか、と苦笑しつつ腰を上げ、着用しているジャージの尻をはたく。
「伴がいてくれたこそ左腕時代のおれがいて、今でもこうして長島さんから背番号3を譲り受けることが出来たんだ。これから先、女房役が誰になろうともそれは一生変わらない。おれも忙しさにかまけてなかなかきみと会うこともままならなかったからな」
「……すまん、らしくなかったのう」
飛雄馬を見上げ、伴は目を擦ると鼻を啜る。
「今日は久しぶりに話せて嬉しかった。親父さんにサボっていたことが知れたらまた面倒だぞ。早く帰った方がいい」
「おう。そのつもりじゃい……星、負けるなよ。星なら大丈夫じゃい」
「ああ」
飛雄馬は返事をするなり土手を駆け上ると、そのまま寮への道を引き返す。明日はヤクルト戦が控えている。花形さんとは必ずぶつかることになるだろう。
彼とも、ここ数ヶ月は顔を合わせていない。
一時期はしきりに屋敷に顔を出せと連絡が来ていたが、今はそれもない。
だからこそ恐ろしい。こちらが想像もつかないような特訓をし、彼はおれを迎え撃つだろう。
「…………」
自然と、土手を駆ける飛雄馬の全身に力が篭もる。
いいや、対峙する前から弱気になってどうする。
おれもまた、これまで血の滲むような練習を、特訓を続けてきたじゃないか。
ふと、土手を駆ける飛雄馬の頬を心地良い風が撫で、春の訪れを感じさせた。
もうそんな季節か、と飛雄馬は陽の光を受け、きらきらと光る川の水面を見つめ、元気に辺りを駆け回る子供たちの姿に目を細めてから、ほんの少し、歩調を速めた。寮まで、あと少し。