浜辺
浜辺 「美奈さんには将来の夢とか、あったりしたんですか?」
宮崎の海岸、その浜辺にふたり並んで座ったまま、飛雄馬はふと、隣に佇んでいる少女の横顔を見遣った。
時間的にはそう遅くはないが、近くに街灯らしきものがないため、辺りは薄暗い。
しかし、そのおかげで夜空に輝く星々のひとつひとつがはっきりと見え、月の表面にある窪みでさえ地表の、この位置から肉眼で捉えられるようだった。
「将来の、夢……そうね、何かしら」
美奈の声に海のさざなみが重なり、何とも心地のいい音色が飛雄馬の耳をくすぐる。
「こっちは、空が綺麗ですね。おれがいた長屋も周りに高い建物なんかほとんどなくって星が綺麗に見えたもんだけど、宮崎の空はまた格別だ。真っ暗な空にキラキラ、星が光ってて、すごいなあ」
「…………」
ぷっ、と飛雄馬のまるで子供のような呟きに思わず美奈が吹き出したか、少し背けた顔、その細い肩が微かに震えている。
「あ……ごめんなさい。嫌だな。子供みたいなこと言って」
頬を染め、飛雄馬は照れ隠しに頭を掻く。
「ふふっ、いえ、こちらこそごめんなさい。あんまり星さんが可愛いから。東京の空というものを美奈は見たことないから、どんなものか比べられないのが残念だわ」
「…………今度、東京に来てください。美奈さんが宮崎の街を案内してくれたようにぼくも東京を案内します。飛行機のチケットもお送りしますよ」
「…………」
てっきり、喜んでもらえるとばかり考えていた飛雄馬だが、まさか美奈が目を伏せ、その肉付きのいい艷やかな唇をきゅっと引き結ぶとは思いもせず、目を白黒させた。
「えっ、あ、き、急でしたね。すみません……いきなり東京に来てだなんて、あはは」
「さっきの、話だけど」
「え?」
慌てて取り繕った飛雄馬の顔を真っ直ぐ見据え、引き結んだ唇を美奈がゆっくりと開く。
「お嫁さんになりたかったわ。幸せな。好きな人と一緒に年を取って、平凡で慎ましく、幸せな家庭を築きたかった」
「…………」
「うふふ、私こそ子供みたい。変なことばかり言ってごめんなさい」
「じゃあ、一緒にその夢、叶えませんか。あ、いや、その!えっと!」
「……星さんには星さんの夢があるのではなくて?」
あたふたと狼狽える飛雄馬だが、美奈の落ち着いた冷静な言葉にふっと肩の力を抜き、手元の砂を掬い上げた。
球場の触り慣れた土の感触はそこにはなく、打ち寄せる波が遠い異国から、あるいは海底から拾い上げ、ここまで運んできたであろう砂粒、砕け、波に揉まれ鋭利さを失った微かな瓶などの欠片。
珊瑚の死骸や魚の骨などの小さな命の生きた証。
それらの繊細な粒が指を開けば、さらさらと飛雄馬の手から滑り落ちていく。
「おれの、夢ですか。ふふ……おれの夢なんてものはもう忘れてしまいました。強いて言えば、美奈さんと同じかもしれません。幸せになりたかった」
「今は、幸せではないの?」
「…………」
飛雄馬はふっ、と唇を歪め、砂浜に投げ出すようにして座っていた両足を膝を曲げ、腕に抱く。
いわゆる、体操座りのような格好を取ってからその膝に顔を埋めた。
浜辺に打ち寄せる波が刻む、一定のリズムが心地良い。
人工的な音は何ひとつ聞こえてはこない。
少しでも気を抜けば、ふらりと波に海中深く引きずり込まれるのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「星さん」
「う、あっ!」
突然、名を呼ばれたもので飛雄馬は驚き、弾かれたように顔を上げる。
すると、目の前には美奈の美しい顔があって、飛雄馬は思わずその表情に見惚れた。
「そろそろ、帰りましょう。星さんも門限がお有りでしょう」
「……ええ」
名残惜しくはあるが飛雄馬は彼女に賛同するがごとく頷き、先に腰を上げた美奈の後を追うようにして立ち上がる。
「美奈は星さんと出会えて幸せだわ。あなたみたいな素晴らしい方と」
「そ、そんなこと……」
どちらかと言えば、素晴らしいのはあなたの方です。美奈さん……。
ずっとあなたと一緒にいられたらどんなに幸せなことだろう。美奈さん。
名前を口にするたびに、あなたのことを考えるたびに胸が高鳴って、どうしようもなくなってしまう。
飛雄馬はこちらを振り返り、ニコリと笑んだ彼女に対し、何とも締まりのない笑顔を返す。
「また、会ってくれますか」
飛雄馬は先を行く美奈の後ろ姿に語りかける。
「…………」
「美奈さん?」
美奈からの応答はなく、聞こえていないのだろうか、と飛雄馬はもう一度、彼女を呼ぶ。
しかし、波の音が辺りに響くばかりで美奈は振り返りもせず、ふたりの距離も一向に縮まらない。
飛雄馬は呼びかけるのをやめ、暗い夜を映す水面を見つめた。
キラキラと月の光を受け、輝く波が美しくもあり、恐ろしくもある。
おれの夢、いつしかとうちゃんが盛んに口にする巨人の星になるというそれにすり替わってしまった気がする。
おれのやりたいこと、おれの将来について。
まだかあちゃんが生きていた頃、そんな話をしたような気もする。
幸せになりたい、だなんて、漠然としすぎているな。
飛雄馬はくすっ、と口元で小さく微笑んでから空に悠然と輝く月を仰ぐ。
いつか、美奈さんに東京タワーを見せてあげることができたらいいな、とそんなことをふと、考えながら飛雄馬は前を向くと美奈に遅れを取るまいと歩調を速めた。