葉巻
葉巻 昼飯をどこかに食いに行かんか、と伴が自身が常務として働く伴重工業のグラウンドでアメリカから遥々呼び寄せたビル・サンダーコーチにしごかれ、日々練習を重ねる飛雄馬にそう、声を掛けた。
昼?と飛雄馬は汗をタオルで拭いつつ、もうそんな時間か、と目を瞬かせる。
それならば、と飛雄馬は世話になっているサンダー氏も一緒に、と言ったものの、彼はどうも日本の和食があまりお気に召さぬらしく、近くにあるハンバーガー屋に行くから気にするな、と伴付きの若い英語の分かる秘書を通じて2人の申し出を断った。
伴はまたもや秘書を通じ、2時間程度経ったらばまたこのグラウンドで落ち合うようにしよう、とサンダー氏に耳打ちし、3人は一先ずそこで別れた。
むろん、大事な秘書にもどこかで昼食を済ませて来てくれ、と伴は金を握らせ、グラウンド近くに待たせていたベンツに乗り込んだ。
「良かったのか」
「ん?何がじゃい」
伴に続くようにしてベンツの後部座席に滑り込んだ飛雄馬が訊く。伴は運転手に行き先を告げるやいなや、車の中に置いていたまだ半分ほど残っている葉巻を手にすると、その先をガスライターでゆっくりと焦がしてから再び咥え、息を吸いつつ火を灯す。
「………」
飛雄馬はにわかに足を組み、走り出した車を操る運転手に窓を開けるように頼んだ。
「で、良かったとはなんじゃい」
葉巻を咥えたまま、伴が尋ねる。飛雄馬は彼の顔を目を細め一瞥したあと、「秘書を連れて来なくても」と低い声で言葉を紡いだ。
「秘書チャンを?なに、ずっとわしと一緒だと彼女も息が詰まるじゃろ。休憩くらい別々に取らんとな」
なるほど、伴らしい、と飛雄馬は薄く笑うと、僅かに開いた窓の隙間から外を見遣る。5年の間に街も色々と様変わりしたようで、そう言えばあの角には本屋があった気がするが、やらあの食堂の隣は文具屋だったように思うが、と飛雄馬は頭の中の記憶と目から入る情報とを照らし合わせてみるも、なかなか一致することなく、些か寂しささえ覚えた。
「そう言えば、おまえ、煙草を覚えたのか」
窓の外を仰ぎ見つつ飛雄馬が口を開く。
「ワハハ、星よ。これは葉巻と言ってな。引退して、会社に勤めだしてからオヤジに1本試しに吸ってみろ、貫禄が出るぞと言われて咥えてみたのが始まりじゃい」
「………おれはあまりそれが好きではない」
「う、ぐっ……」
大口を開け笑っていた伴だが、飛雄馬に言葉を濁すことなくピシャリと言われ、息を飲んだ。
「人の趣味趣向にどうこう言える身分ではないのを承知で言うが、おれの前では吸わないでくれると助かる」
伴は目を数回瞬かせると、葉巻を口から離し、そのまま灰皿に置いた。
「星がそう言うのならわしはもう吸わんことにする。今日、今限りでサヨナラじゃい」
腕を組んで、伴はぷいと顔を逸らした。それを聞くなり隣に座る彼の顔を飛雄馬は見つめる。
「いいのか。別におれと一緒でないときは好きにしたらいいと思うが」
「いいや決めたわい。わしはもう金輪際、これは吸わんことにした」
「………そうか」
目の前の信号が赤に変わって運転手はブレーキを踏み、車を止めた。
その際、何やら手帳を取り出しペンで書き込もうとしたようだが手が滑り、彼はペンを足元に取り落とす。参ったなとばかりに運転手はまだ信号が変わらぬのを確認して、ブレーキをしっかり踏み締めたまま頭と腕を足元に滑らせた。
「伴」
「なんじゃい。わしの決意は固いんじゃあ。それに星も男なら自分が言った言葉に責──」
腕を組んだまま自身の方へと顔を向けた伴の唇に飛雄馬は顔を上向け、そうっと口付ける。そうして、飛雄馬が離れるのと運転手が足元に落ちたペンを拾い顔を上げるのがほぼ同時で、伴はかーっと頬を染め、まるで金魚のように口をぱくぱくとさせた。
「やっぱり、苦いな」
「ほ、星───っ!!」
車が伴の大声でビリビリと揺れ、運転手は何事かと二人を振り返る。飛雄馬はくすくすと笑いを溢し、信号、青ですよとこちらを不思議そうな顔で見ている運転手へと指を差し、車を走らせるよう促した。
何が何やらわからぬままに車を目的地へと遣る運転手と目を幾度も瞬かせ、口元を手で押さえている伴が愉快で飛雄馬は微笑んだまま、先程まで見つめていた窓の外に視線を投げる。
すると、商店の建ち並ぶ街並みの中にまだ伴と自身が現役選手だった頃に何度か通ったラーメン屋が目に入って、次回の昼飯はあの店で食べることにしようか、と飛雄馬は一人、そんなことを思った。