もうすぐ明子も帰ってくるだろうから、自分の家だと思ってゆっくりしていたまえ、と花形に言われて1時間になるだろうか。
この日、飛雄馬は姉の明子に呼ばれ、花形邸を訪ねている。
しかして、肝心の姉は買い物に出ているとかでまさかの花形とふたりきり、客間のソファーに腰を下ろし時間を潰すことに相成った。
花形にはテレビでも観ていたらいいとは言われたものの、何やら隣で書類の整理やら電話やらされては落ち着いて鑑賞することもできない。
飛雄馬は短くなった煙草を灰皿に押し付け、再び2本目を口元に携えた花形に対して、少し控えてくれないだろうか、と遠慮がちにそんな言葉を口にした。
「…………」
つい先程、花形から煙草を吸ってもいいかねと尋ねられた際には構わないと答えた飛雄馬だったが、あまりに吸う頻度が高く、体に悪い──と判断しての苦言だった。
けれども花形は飛雄馬に一瞥をくれたのみで、咥えた煙草の先にジャケットのポケットから取り出したジッポ・ライターで火を付けると、大きく息を吸い込んだ。
再び、部屋には微かに煙草の香りが漂って、飛雄馬はむっとあからさまに眉根を寄せる。
「話を、聞いていなかったのか?」
「そう声を荒らげずともちゃんと聞こえていたさ。はっきりとね」
「では、なぜ煙草に火を付け…………!」
軽くいなされたことに苛立ち、尋ねた飛雄馬の傍らに花形は体を寄せると、ふいに彼の顎に指をかけ自身の顔をやや傾けるや否や、その唇に口付けた。
触れた唇が僅かに苦みを孕んでいて、飛雄馬は顔をしかめたが、花形はそれ以上深追いしてくることもなく、ニヤリと笑むと指に挟んでいた煙草を咥え直す。
「これで気を紛らわせているぼくの気持ちも汲んでほしいものだね」
まさかの展開に目を白黒させている飛雄馬に対し、冗談さ、と花形は唇を笑みの形に歪めてから紫煙を口から吐いた。
「…………」
「フフッ、本気にしたかね。なに、間もなく辞めるつもりさ。間もなく、ね」
花形という男は掴めない、と飛雄馬は唇を手で拭いつつ彼から視線を逸らす。
戯れに人を惑わすのはいい加減にしてほしい。
だからこの男がおれは苦手なのだ。
「辞めようと思って、簡単に辞められるものなのか」
「……きみがいない辛さに比べたらどうということもないさ」
「…………おれが?」
フッ、と花形は笑みを溢し、こっちの話さと言葉を濁すと、部屋に設置された黒電話がけたたましく鳴り響いたため席を立った。
どうやら会社からの電話のようで、親しげに相手と笑いを交えつつ話し込む花形の後ろ姿を飛雄馬は見つめながら、あの人はこれから何を始めるつもりなのだろうか、と背筋に薄ら寒いものを感じる。
すると、明子が部屋の出入り口から顔を出したもので、飛雄馬はねえちゃん!と顔を輝かせ、彼女に呼ばれるまま花形に会釈してから部屋を出た。
電話はどなた?と訊く明子に分からない、と答えた飛雄馬だったが、この日花形が電話で親しげに談笑する相手こそヤクルトスワローズの現監督・広岡達朗であり──まさか花形が球界に返り咲くべく、妻や義弟である飛雄馬にも気付かれぬよう画策していることなど今はまだ知る由もないのだ──。