母の日
母の日 学校から一目散に帰宅した飛雄馬が何やら机に向かい、一生懸命に何か書いているもので明子は大方宿題でもしているのだろう、と思った。
今日は珍しく一徹が日雇いの仕事に出ており、明子もそんな父のために今日の夕飯は少し精のつくものにしようと張り切り、つい先程買い物から帰ったところであった。
朝から干しておいた洗濯物を取り込み、それらを明子が丁寧に畳んでいても飛雄馬は彼女に背を向けたままで、そんなにたくさん宿題が出たのかしらと明子は苦笑する。
と、できたあ!と飛雄馬が突然大声を出し、両手を万歳するかのごとく掲げたもので驚き、キャッ!と悲鳴を上げた。
「あっ、ねえちゃん。びっくりさせてごめんよ」
「い、いえ、私こそ変な声出してしまってごめんなさいね。宿題、終わったの?」
「ううん。宿題はこれからさ」
てっきり宿題をしているとばかり思っていたのだけれど、と明子が首を傾げると、飛雄馬が、「はい」と何やら帳面を切って作ったものを彼女に差し出す。
1枚の帳面から10枚程度作成されたその切れ端たちにはひとつひとつ手書きで『おてつだいけん』『かたたきけん』『さらあらいけん』『おつかいけん』と書かれており、明子はそれを目の当たりにし目を数回瞬かせた。
「もうすぐ母の日だからさ。本当のかあちゃんは、もういないけど、かあちゃん代わりをしてくれてるねえちゃんに、と思って」
「…………飛雄馬」
明子は畳み掛けの飛雄馬の下着も放り出して、得意そうに微笑んでいる弟の体をぎゅうっと強く抱き締める。
「ね、ねえちゃん?どうしたの?」
「ありがとう。飛雄馬。すごく嬉しいわ」
「………いつもありがとう。おれがいつかでっかく輝く巨人の星になったら楽させてやるからさ」
「ふふふ………そうね。そのときはお願いするわ」
「なんて、その頃にはねえちゃんもうお嫁に行ってたりして」
「まあ。飛雄馬ったら」
クスクスと明子は笑みを溢し、飛雄馬を抱く腕を緩める。
「へへへ。とにかく、たまにはゆっくりしたっていいんだぜ、ねえちゃん」
「ありがとう。大事に使わせてもらうわね。うふふ、さあ、飛雄馬もお父さんが帰ってくる前に宿題済ませなさい」
「うん。そのつもりさ」
飛雄馬はそのまま布製の肩掛け鞄から教科書と帳面を取り出し、机に向かう。
明子もまた、洗濯物を畳み終えてからそれぞれを箪笥に仕舞うと夕食の準備に取り掛かる。
ねえちゃん、おれ今度カレーライスって言うのを食べてみたい、と言う飛雄馬に、お父さんが日雇いのお金を持ってきてくれたら作ってみましょうか、と明子はそんな言葉を返す。
「やったあ。クラスでさカレーの話になっておれだけ食べたことなくて悔しくてさ」
「……………」
明子は米を研ぎながら耳にした飛雄馬の言葉にぐっと胸を詰まらせる。
「真っ白いご飯の上に乗せられた茶色いカレーとか言うのにはじゃがいもやにんじん、玉ねぎ、それに牛肉まで入ってるって話だぜ」
「…………ふ、ふふっ。ねえさんも小さい頃食べたきりだから楽しみだわ」
飛雄馬に泣いていることを悟られぬよう明子はあえて彼の方を振り向かず、何度か米を研いでから水を米の量に応じて適量注いだ鍋をコンロの五徳の上に置いた。
──たとえ巨人の星になれずとも、カレーやコロッケ、そういった類のものを飛雄馬が気兼ねなくいつでも好きなときに食べられるように、そういう大人になってくれたら、と明子は思わずにはいられなかった。
あの父と毎日のように手が腫れ上がるほど野球の練習に打ち込み、耳を塞ぎたくなるような奇怪な音を奏でるギブスを嵌められることを強制されたたった一人の弟が、どうか幸せであってくれますように。
母の日だからと自分の身を気遣ってくれた飛雄馬がどうか笑える未来を迎えられていますように、と。
目元を濡らす涙を拭って、明子は小さく鼻を啜ると今度はおかずの準備に取り掛かかった。
日が沈み部屋の中には闇が訪れる。
飛雄馬は明かりをつけてから再び机に向かう。
今から父が帰宅するまでの数十分。二人にとって束の間の安息時間でもあった。