午後
午後 それじゃあ星さん、留守を頼みますよ。
伴の屋敷でお手伝いとして働く老女──迎えに来たタクシーに乗り込むおばさんに、玄関先にて深々と頭を下げられ、飛雄馬もつられるように会釈を返した昼下がり。この日、伴は仕事に出て不在であり、サンダーさんも昼食後すぐに運動するのはよくアリマセンとか何とか理由をつけ、通訳を伴い東京見物に出ている。
いわく、日本に来るのは初めてとのことで、それならばと飛雄馬はサンダーさんの東京見物の申し出を承諾し、彼が帰るまでしばらく伴の屋敷で休んでいることとした。
久しぶりの何もない、ひとりの時間、とはいえ手持ち無沙汰でしょうがなく、飛雄馬は朝から一度も座ることなく働きづめのおばさんを気遣い、何か手伝いましょうかと声をかけたところ、そのまま留守番を仰せつかる。
おばさんを見送り、広い屋敷の中にぽつんとひとりで飛雄馬はどうしたものかと大きな溜息を吐く。
掃除も洗濯も何もかもおばさんが済ませてくれた。
昼の食事だって簡単なものでいいと言ったにも関わらず、きっちり一汁三菜の品を出してくれ、却って申し訳なく思う始末。
おばさんももう隠居を考えていい年だろうに、よっぽど伴のことが心配なのだろうな、と飛雄馬は今朝も遅刻ギリギリで、頭には寝癖をつけて屋敷を出て行った親友のことを脳裏に思い描く。
伴には年下や同い年より、年上のしっかりものの嫁さんが来てくれたらいいのだが、と飛雄馬は苦笑し、昼飯を食べてからだいぶ時間も経ち、腹もこなれてきたことだし町内をランニングでもしてこようかと思い立つ。と、何やら、いつもに比べ屋敷の中が昼過ぎにしてはやたらと薄暗いことに気付いて、飛雄馬は、もしや雨では、と玄関先に置かれていたサンダルを履き、外へと出る。
すると、予想的中、見上げた空には濃い鈍色の雲が広がっており、そこからぽつりぽつりと滴が地面を濡らしつつあった。
さっきまであんなに晴れていたのに──おばさんは傘を持っていただろうか、いや、タクシーに乗っているなら大丈夫だろう──サンダーさんは、伴が会社から連絡を入れ、車と運転手を手配してくれたし──何も問題はない。あとはこの不穏な通り雨が止んでくれることを願うだけだ。
飛雄馬はそこまで思ってから、屋敷の中に入るとサンダルを脱ぎ、框を上がる。
そうして、板張りの廊下を行きつつ、今朝方おばさんが洗濯物を庭に干していた光景を鮮明に思い出し、飛雄馬は矢も盾も堪らず駆け出した。
廊下を駆ける最中にも聞こえる、屋敷の瓦と壁を叩く雨風の音。
洗濯物は全滅してしまっただろうか。ああ、どうしてもっと早く気付かなかったのか。
飛雄馬は庭へと続く廊下の縁側から外へ出て、竿に干されていた洗濯物をなりふり構わず屋敷の中へと投げ入れる。伴のシャツやズボン、自分の衣服やサンダーさんの下着類。
音の割に、雨はまだそこまでひどく降ってはおらず、ほとんど濡れずに済んだようで、飛雄馬はほっと胸を撫で下ろすと、縁側から部屋の中に洗濯物を持ち寄り、ひとつひとつそれを丁寧に畳んでいく。洗剤の匂いに混じり、ほのかに伴の匂いが残るシャツと下着。
自分の体の二倍近くはありそうなタンクトップとシャツを畳み、飛雄馬は自分のものを畳んでいく。
それからふと気付けば、辺りはまるで夜でも訪れたがごとく真っ暗になっており、雨足の強さを物語る。
皆、濡れていないといいのだが、と飛雄馬は自分のものとサンダー氏の洗濯物を畳み終えると、そこでホッと一息吐いた。
伴の大きなシャツ眺め、飛雄馬は、伴のやつ、また太ったんじゃなかろうか、と苦笑する。
あとでアイロンもかけなければ、と飛雄馬は縁側で黒い雲を眺める。
屋根を叩き、地面に降りしきる雨は規則的で変に心地良い。束の間の平穏と言ったところか。
しばらく、雨の音に聞き入ってから飛雄馬は伴のシャツにアイロンを掛けてやるべく立ち上がる。
すると、玄関の引き戸が開く音がして、「ひえ〜降られるとはついとらんわい」と玄関先でぼやく声が耳に入った。
「おばさん、おらんのか。おばさん」
「おばさんなら買い物に出ているぞ」
屋敷全体を震わすような大声でおばさんを呼ぶ伴がいる玄関先まで飛雄馬は出向くと、脱衣所から持ち寄ったバスタオルを彼に手渡す。
「わわっ!なんじゃい、驚かさんでくれえ」
「それはこっちの台詞だ。いちいち大きな声を出す必要はないだろう」
「外回りで近くまで来たから寄っただけじゃい。別に星に会いに来たわけじゃないぞい」
「…………」
バスタオルで濡れた頭や肩周辺を拭う伴の姿を飛雄馬は黙って見つめ、拭いたら仕事に戻れよと冷ややかに言い放つ。
「お、怒るな星よう、冗談じゃあ」
ぺこぺこといつもの調子で顔の前で両手を合わせ、頭を下げることを繰り返す伴の姿に、飛雄馬はやれやれ、と溜息を吐くと、何かおばさんに用か?と尋ねた。
「濡れたからタオルを持ってきてほしかっただけじゃい。騒がしくして悪かったのう」
「雨の中わざわざ車を降りる必要もなかっただろうに。物好きだな」
目に見えてしょんぼりと肩を落とす伴に対し、飛雄馬は微笑みかけると、早く仕事に戻れと彼を急かす。
「ほ、星の顔が見たくて、そのう……サンダーさんは出掛けると言っとったし、今なら星に会えるかなと」
「…………」
また臭い台詞を言ってのけるものだこの男。
仕事から帰ってきたら嫌でも顔を突き合わせると言うのに。雨の中わざわざ車を降りて屋敷にやってくるとは。
「す、すまん。また後で」
「ああ、また後で」
そそくさとその場を切り上げる伴を呼び止めようかと飛雄馬は一瞬、考えたが、それでは彼のためにならんなと後ろ姿を目で追うに留めた。
ベンツだとかいう高級外車の後部座席に乗り込み、去っていく伴の姿を降りしきる雨の合間から見送って、飛雄馬は玄関先に置かれたタオルを回収する。
それから、戸を閉めようとしたところで今度は一台のタクシーが屋敷の前に止まった。
飛雄馬はおばさんだろうか、と傘を手に屋敷を出る。
タクシーの開いたドアから顔を出したのはやはり彼女であり、飛雄馬はその着物が濡れぬように傘を差し出してやりながら、運転手へと礼を言った。
「あらあら、星さん、わざわざご丁寧にありがとうございます」
「いえ、おばさんも災難でしたね」
「まさか降り出すなんてね。びっくりしましたよ」
手提げ袋を引き取り、飛雄馬はおばさんが濡れないように配慮しながらふたり、連れたって屋敷の中へと入る。
「誰かいらしたんですか?玄関が濡れているみたいですけど」
「ああ、伴が忘れ物をしたとかで一度帰ってきましたよ」
「坊っちゃんが?まあ、嫌ですよ。ホント、いつまで経っても子供みたいで……星さんからも言ってやってくださいよ。それじゃあ嫁の来てがありませんよって」
「…………」
「坊っちゃん、いい人なんですけどねえ。お見合いもなかなか上手くいかないみたいで、旦那様も頭を痛めておいでで困ったものですよ」
「ふふ、おれからよく言っておきますよ……」
飛雄馬は言葉を濁すと、台所まで彼女と同伴し、それから自分に充てがわれている部屋へと戻った。
雨は未だ降り続いている。
目を閉じればこのまま心地よく眠ってしまえそうでもある。
明日は晴れてくれるだろうか。そうでなければ困る。
サンダーさんは帰ってこないところを見ると、どこかで雨宿りでもしているんだろうか。
畳の上に横になり、飛雄馬はそのままいつの間にか寝入ってしまう。
そうして目を覚ましてみれば、体には誰が乗せてくれたか布団が掛けられていて、遠くでは帰宅したのか伴とサンダーさん、そしておばさんが談笑する声が聞こえてきて、飛雄馬は小さく微笑む。
今日はどうやらカレーの日らしい。
体を起こし、程よい空腹感を覚えた腹を撫でてから飛雄馬は部屋を出る。とっくに雨は上がっているようであり、飛雄馬は明日からまた気を引き締めねば、とバットだこだらけの両手の指を掌に握り込むと空に光っているであろう、幾多の星々を屋敷の壁越しに見上げた。