下校
下校 一人美術室に篭って漫画を描いていた牧場春彦は、ふと気付けば辺りは暗く下校時刻をとっくの昔に過ぎていることに気付いて、まずい!と原稿を描くのに使っているケント紙をかき集め、鞄に押し込むと鍵を締め、職員室まで続く廊下を一目散に駆けた。
万年運動不足の牧場にとって、この全力疾走はとてつもなく苦しく、職員室に到着する頃には息も絶え絶えとなり、足も縺れんばかりであった。
するとちょうど、部室の鍵を返しに来たらしき星飛雄馬と鉢合わせ、牧場は肩を上下させつつ掠れた声で彼の名を呼んだ。
「牧場さんじゃないか。どうしたんです、そんなに急いで」
「は、はは。美術室で一人漫画を描いていたらこんな時間なのに気付かなくてね……はあ、すまない。走ったもので息が切れてしまった、はあ、星くんこそ、今帰りかい」
「ええ、そんなところです」
ニコッ、と微笑みを浮かべ自身を仰ぐ彼の姿を牧場は額にかいた汗を拭いつつ見つめた。青雲高校一年の星飛雄馬と言えば今や知らぬ者はいないだろう。
あのPTA会長の息子を柔道から野球に転向させたかと思えば、甲子園を目指すためにとPTA会長がなぜかしら彼の父を一時的ながら野球部監督に雇ったと言うのだから驚きである。
そこで初めて星飛雄馬と言う、ぼくからしたら神様みたいな存在にぼく個人が認識されたのであるが──。
入学した当時からある程度、彼のことは噂になっていた。
伝統ある名門、由緒正しき家庭の子息しか受け入れてはいない青雲高校にどこをどう見ても似つかわしくないどこぞの長屋住まいの少年が入学してきたのだから。
継ぎの当てられた粗末な制服を纏った彼を笑う者も少なからずいたが、彼はそれを恥じるでも、ましてや彼らを罵るでもなくむしろ胸を張り、正々堂々と学校生活を送っていたし、加えて成績優秀、スポーツ万能。それでいて見た目も良いとくれば段々と笑う者もいなくなった。
そんな彼を、ぼくはずっと追ってきた。
むろん学年も違うし、もやしっ子のぼくとスポーツマンの星くんとじゃなんの接点もないことは分かっていたけれど、それでも野球を真剣に、ひたむきに一生懸命頑張る姿にとても惹かれたんだ。
「よかったら一緒に──あ、伴くんが一緒かな?」
牧場は言いかけて、伴の存在を思い出し、そう尋ねたが飛雄馬は今日は伴、用事があって部活には顔を出してませんよ、と答えた。
「そうなんだね。それは良かっ……あ、いや、寂しいね、星くんからしたら」
「……フフ、そうですね。おれの球を取れるのは伴くらいですからね」
歩き出した飛雄馬の後を追うように、牧場もやや小走りになる。
「星くんは漫画とか読む?読むならどんなのを読むの?」
「漫画ですか。何でも読みますけど、どうしてです」
「ぼく、きみをモデルに野球漫画を描こうと思っていてね。ネームを切ったところで、あ、えっと、ネームって言うのは漫画の設計図みたいな、えっと、分かるかな?」
しどろもどろになりつつ牧場は隣を行く飛雄馬に見せようと鞄の中を漁るが、慌てたもので、先程鞄に詰めたケント紙とネームを書くのに使っているわら半紙の束がバラバラッと廊下に落ち、散らばる。
「あ、ああっ!!」
なんて醜態を晒してしまったのだと赤面する牧場だったが、飛雄馬はそれに気付くと歩みを止め、一枚一枚丁寧に拾ってやると、牧場に向かいそれらを差し出した。
ぼうっと呆け、自分が撒き散らしたにも関わらず拾うこともせず飛雄馬の様を見ていた牧場は目の前に差し出された紙の束にハッ!と我に返る。
「あっ、ありがとう!星くん」
「いえ、大丈夫ですか?」
「…………」
牧場はそれを受け取って、鞄に仕舞うと、先に行くでもなくその場で待っていてくれた飛雄馬にまた礼を言うと、立ち上がって、再び二人歩き始めた。
「星くんは、優しいね。ありがとう、助かったよ」
頬を染め、照れ臭そうに言う牧場に、飛雄馬はところでどんな漫画を?と切り返す。
ああ!と牧場はそれで思い出したか、自身が頭の中で描く星飛雄馬をモデルとした野球漫画の設定や話のあらすじについてを学校を出てからもペラペラと一人で矢継ぎ早に語った。
それでも飛雄馬はうんざりすることもなく、嫌な顔ひとつせず牧場の話を聞いてやる。
「あ!ぼく一人で喋ってたな、嫌だな……申し訳ない」
「ふふ、面白かったですよ。牧場さんの漫画。出来たら是非読ませてほしいなあ」
「ほ、ほんとかい?」
勢いのまま、牧場は飛雄馬の手を握る。これには飛雄馬もさすがに面食らったか、ビクッと体を強張らせた。
「あっ!ああ、ぼくはなんてことを……」
「自分の夢に向かって一生懸命頑張る姿を、おれは素敵だと思いますよ。牧場さん、応援しています」
ぎゅうと牧場の手を握り返して、飛雄馬は笑顔を見せる。
「星くん……」
「それじゃあ、おれのうちはこっちなので。牧場さんも気を付けて」
飛雄馬は言うと、牧場に手を振って長屋までの道のりを駆け出した。あっ、と牧場は手を伸ばしたもののすぐにそれを引っ込め、自宅までの道を歩く。
星くんは、なんていい子なんだろうか。一方的にしゃべるぼくの話を嫌な顔せずきちんと聞いて、しっかり受け答えしてくれた。野球の練習で疲れているだろうに、本当はさっさと帰って眠りたいのが本音だろうに。
星くんが無理をして、我慢をし続けて、いつかその優しさで人のために身を滅ぼすことにならなければいいが、と牧場は一人暗い住宅街を歩きつつ、そんなことを思う。
人のことを気遣えて、その人に寄り添うことが出来るのは長所でもあるが、時には短所にもなり得るということを、彼は果たして知っているのだろうか──こんな一方的な会話に付き合わせたぼくが言える筋合いではないが……牧場は飛雄馬の指と触れ合った自身の掌を見つめ、そうして頭上を仰ぐ。夜空に輝く無数の星を見上げて、牧場は強く拳を握った。