解毒
解毒 ねえ、おにいちゃん、巨人の星飛雄馬でしょ?

何の宛もなく、立ち寄った港町で昼食を取るべく商店街を彷徨っていた飛雄馬は突然、グローブとバットを手にした幼い少年に声をかけられ、思わず立ち止まる。
声をかけてきた人物がある程度年齢のいった成年者であったならばこのまま無視を決め込み、いつものように立ち去っていたが、この幼い少年、というのが曲者であった。
飛雄馬は己自身が弟という立場もあってか、こうして自分を慕ってくれる幼い子供の存在というのが無性に可愛く見えてしまうのだ。
それに、昔、多摩川練習場にちょくちょく顔を出してくれていたター坊をどうしても重ねてしまう、というのもひとつの理由だった。
大リーグボール一号を開発できたのも彼の協力や叱咤激励があったお陰であろう。
何度か試合も観に来てくれていたようだが、いつの間にか姿を見せなくなってしまった彼。
今となってはどこかで元気でいてくれることを願うばかりだ。
飛雄馬はこの刹那に、己を呼び止めた少年にター坊を見た。
「よく、わかったね」
努めて丁寧に、そして優しく飛雄馬は彼に声をかけた。
少年は、ぼく星飛雄馬の大ファンなんだ!と前歯の抜けた口元を隠そうともせず、にこりと微笑んだ。
前歯が抜けている、ということは恐らく、小学校に上がるか上がらないかの年齢なのだろうな、と飛雄馬は彼に釣られるようにして笑ってから、目線が同じになるように身を屈める。
「野球が好きなのかい」
「うん、大好き。あんまり上手じゃないけどね。えへへ」
「上手下手は関係ないさ。何より、楽しむことが1番だよ」
そう言うと飛雄馬は、野球帽をかぶった少年の頭を撫でてやった。
楽しむことが1番、だなんてそんな白々しい台詞がよく口を吐いたものだ──と飛雄馬はサングラスの濃い色をしたレンズの裏で目を細める。
なぜこの少年は、おれのファンだと言うのだろう。
現役時代にも度々、おれのファンだと言ってくれる人はありがたいことに存在したが、おれの野球をする理由なんて、そんな口にするのもはばかられるようなもので──。
「ぼくね、星選手の何事も一生懸命なところが大好きだったんだ。大リーグボールだってそんな普通の選手が投げられっこないよ。それなのに三号まで作っちゃってさ。すごいよ」
「…………」
「ぼく、プロ野球選手になるのが夢なんだけど、打つのも投げるのも下手だから夢の話をすると皆に笑われちゃうんだ。でも、出来ないって初めから決めつけて挑戦しないなんて男じゃないよね!本当は野球をやめるつもりで監督に話をしに行こうと思ってたんだけど……星選手に会えたから……がんばるよ」
少年は感極まったか、いつの間にか大粒の涙を流しながら飛雄馬に対し己の心情をぶちまけていた。 彼の告白を黙って聞きつつ飛雄馬は、ともすれば己が泣き出しそうになるのを懸命に堪え、きみさえよければおれがきみのコーチをしてやろう、と言うなり立ち上がる。
そのまま少年に背を向け、サングラスを外した目元を手で拭いながら、どこか野球のできる広場はないか?とも彼に尋ねた。
「…………!」
少年は顔を輝かせ、目元に残っていた涙を拭くと勢いよく駆け出し、こっちこっちと飛雄馬を呼ぶ。
切り替えの早い子だな、と飛雄馬はサングラスをかけ直すと、少年の後を追うようにして案内された広場に向かう。
そうしてそこから日がとっぷりと暮れるまで、飛雄馬自身が父より叩き込まれた野球のノウハウを彼に教え込んだ。
野球に関しては一切の妥協を許さない星飛雄馬の姿勢は、どこか彼の父に似てスパルタ方式なところもあったが、少年は泣き言ひとつ漏らすことはなく、却って飛雄馬の方が舌を巻く結果となった。
「はぁっ……はあっ、ありがとう、ございました」
「なに、礼を言うのはこちらの方だ。ありがとう。久しぶりに野球と名のつくものに触れたように思う」
「え?星選手、もう野球はしてないの?」
顔面を汗にまみれさせ、呼吸を整えるために肩を上下させている少年が不思議そうに尋ねた。
「見てのとおりだ。もうこの左腕で球は投げられない。野球どころか日雇いの仕事をするのも難しいくらいだ」
「うそだ。星選手も野球が好きなんだろう。じゃなきゃぼくをこんなにしごくわけないもの。適当なことを教えてさっさと終わりにするはずだよ」
「…………!」
少年の言葉に、飛雄馬はハッと息を呑む。
おれが、野球を、好き?
久しぶりにバットを握り、擦れてマメのできた掌を見下ろし、飛雄馬は拳を握る。
まさか、見ず知らずの少年にそんなことを言われるとは思いもよらなかった。
これくらいの年齢の子供というのは本質を見抜くのに長けているらしい。
「星選手の教えてくれたこと、ぼく忘れないうちに家に帰って練習してみる!それで今度の試合、ぜったいホームランを打ってみせるよ!」
泥と汗にまみれ、格好は真っ黒に汚れた姿でありながらも、少年の笑顔はどこか晴れ晴れしく爽やかで飛雄馬は、ありがとう!と何度も何度も背後を振り返りながら手を振り、去っていく彼を見えなくなるまで見つめていた。
それから、今になってようやく昼食を食べていないことに気付いて、どこかで食事にするかと思い立つ。
まさか、誰かに教える立場になって初めて野球が好きであったことを自覚するなんてな、と飛雄馬は久しぶりにバットを振ったため、痺れの残る腕をさすりつつ苦笑する。
勝手に、親父に縛られていた気になっていたのはおれの方だったのかもしれん……。
どこからともなく吹いた風に乗り、潮の香りがあたりに漂う。
夕食は魚にするとしよう、と飛雄馬はどこか定食屋を探すべく広場を後にした。