自慰行為
自慰行為 しまった、学生帽を忘れた──と、飛雄馬は住んでいる長屋のそばまでやって来てからこの春から通っている青雲高校、野球部の部室に学生帽を忘れたことに気付いた。
明日朝から取りに行けばいいか、とも考えたが、気が付いたら最後、もうそればかり考えてしまう性分のために飛雄馬は夕飯の準備をしている姉へ青雲高校へと引き返すことを告げてから急ぎ、来た道を引き返し始める。
同じような建物の建ち並ぶ街を抜け、小洒落た住宅街の中を飛雄馬はひた走った。このいわゆる、高級住宅地と呼ばれる地区の中に飛雄馬の在籍している青雲高校は建てられている。
そこに通う生徒たちも言うまでもなくブルジョワ階級の子息らで、比較的貧しい人々が住む地区のこれまた長屋に住んでいる飛雄馬などこの学校では異色の存在であった。
しかして飛雄馬はそれをもろともせず勉学に励み、野球を通して得た女房役でもあり親友の伴宙太を始めとする野球部の面々と毎日汗を流している。
そうして、今日に限っていつもは登下校を共にしている伴宙太が珍しく飛雄馬に先に帰ってくれ、と言ってきたもので、そのお陰で調子が狂い彼は帽子を忘れたというのもあった。
正門からグラウンドへと走って、飛雄馬は野球部の部室へと向かう。日は既に暮れ、辺りは薄暗い。
しかして、部室の中には誰か人がいるのか明かりがついたままで、飛雄馬はてっきり部長の天野先生が何かしているものと思ったが、いざ鍵の掛けられていない扉を開けてみれば、中にいたのは用事があると言っていた伴宙太で──あろうことか彼はいきり立った股間の男性の象徴を手に、一心不乱にそれを擦っていたではないか。
「な……っ!?」
思いもよらない光景に飛雄馬はそのまま声にならぬ声を上げ後退る。すると、革靴の踵がドンと扉にぶつかり派手に音を立てた。その音で伴はこちらに気づいて、ハッ!と顔を上げ飛雄馬に視線を遣った。
沈黙──否、伴の呼吸だけが静まり返った部室内に不気味に響いている。
「ほ、し──」
「あ、っ。いや、帽子を、忘れたから、その。いや、男子たるもの、これくらい──」
変に取り繕って、飛雄馬は部屋に走り込むとテーブルの上に置いたままになっていた自分の学生帽を引っ掴む。そうして無意識のうちに見てしまった。ベンチに座り、こちらを見上げている彼の、その体の真ん中に直立しているそれを。
ごくり、と喉が鳴った。自分のそれとは比べものにならない──いや、なぜそんなことを考える。さっさと退散するが吉だ。 自分を慰めることなどこのくらいの年齢の男子ならあって当然であろう。
野球一筋の飛雄馬自身にその経験はないが、クラスメイトたちがそう言った話をしているのは小耳に挟んだことがあるし、とうちゃんの地獄のような投球練習や千本ノックを受けた日などは性も根も疲れ果てた状態だというのに、股間が妙に膨らむこともあった。
とうちゃんは疲れたときには本能的に子孫を残そうとするためにそこが元気になってしまうとかなんとか言っていた気がするが、それにしたって伴のそれはあまりに…………。
「あ、は、は。す、すまんのう、星ぃ。妙なところを見せてしもうたわい」
立ち上がり、伴はいそいそと制服のスラックスの中にやや萎えかけつつあるそれを仕舞い込み、照れ臭そうに笑う。
「あ、いや──別に、気にしてはいないさ。ははは、元気な証拠だろう」
「…………」
またしても沈黙。じわっと飛雄馬の背中に変な汗が滲む。
「ば、伴も年頃なりにす、好きな女性でもいるのか?青雲は生憎、男子校だからな」
「む……う、まあ、な」
ごまかすように伴は目を泳がせ、口元を掌で撫でる。
「じ、じゃあ、また明日。おやすみ」
帽子をかぶって、踵を返した飛雄馬を伴が呼び止めた。まさか呼び止められるなどとは夢にも思っておらず、ビクッ!と飛雄馬は体を跳ねさせ、ベンチに座り直した彼を見据える。
「恥かきついでに言ってしまうが、星のことを考えていた。ずっと」
「え………?」
どっと飛雄馬の全身から汗が吹き出す。この期に及んで、この男は一体何を?
「ずっと好きなんじゃい、星のことが。おまえのことを考えると夜も眠れんのじゃあ」
「え、あ………え?」
こちらを真っ直ぐに真剣に見つめてくる伴から視線を下げれば例の位置に目がいくもので、慌てて顔を上げれば大きなどんぐり眼と視線がかち合って、飛雄馬は顔を逸らす。
「星の球を受けるたび、その衝撃がおれの体を貫いてもう、胸が苦しゅうて苦しゅうて……」
「ばっ、馬鹿な。そんな話──誰にも言わんから、伴よ、きみも早く家に帰れ」
「星よ、一度でいい。一度でいいから」
伴は立ち上がると、ゆっくり飛雄馬との距離を詰めてくる。
「伴………なんのつもりだっ」
「おまえの手でさわって欲しいんじゃあ」
何をされるのかと身構えた飛雄馬だったが、予想だにしていない伴の言葉にえ?と顔を上げる。
何かもっと舐めろとか過激なことを言われるとばかり考えていたのが恥ずかしくなって、飛雄馬はかあっと頬を染めた。
この申し出にしても十分狂気じみているのだが、この異様な状況に飛雄馬自身、気が動転してしまっており正常な判断ができなくなってしまっている。
手を伸ばせば届く距離まで迫ってきた伴の顔を飛雄馬はじっと仰いで、鼻から深く息を吸うと、左手を前にやって、彼の穿くスラックスのファスナーの中に指を入れると中から逸物を引き出した。
「う、お、っ………」
抑圧を解かれ、外気に触れた伴の逸物がぴくん、と武者震いでもするかのように跳ねた。飛雄馬はそれに下から掬うようにして手を添えると、そっと指を折り曲げ掌に握り込んだ。
筋の浮いた逸物の感触がはっきりと掌から感じられて飛雄馬は再び、ごくり、と唾を飲み込む。そうして、乾いた唇を薄く開いて、どうしたらいい?と尋ねた。
「どう、したら、とは……?」
「おれは、その、こういうことを、したことがない……だから、どうしたらいいかが、分からんのだ」
飛雄馬はたどたどしい口調でそう、事実を告げると大きな黒い瞳を伴へと向け、だから、教えてほしい。と形のよい唇を動かして、教えを請うた。
日に程よく焼け、赤い顔を更に赤く染めた飛雄馬がじっと伴を仰ぐ。困惑したような、はたまた困り果て、今にも泣き出してしまいそうなそんな表情をした飛雄馬に見つめられ、伴の下腹部は更に熱を帯びる。
じわりと彼の額には汗が滲んで、全身がかあっと火照った。
「手を……握ったまま、ゆっくり、動かしてくれんか」
「…………」
言われた通りに、飛雄馬は伴の男根を握ったまま手をそうっと動かす。
根元から先の方まで手を滑らせると、何やらヒヤリとした液体が掌に触れて、飛雄馬は驚き、そのまま動きを止めた。
「っ……星、やめんでくれ」
「なん、かっ………濡れて……」
言いながら、飛雄馬は視線を自身が持つ伴の逸物まで下げる。すると、その掌が包む位置、いわゆる亀頭部位と呼ばれる場所の一番上、その窪んだところから何やらとろとろと液体が垂れているのが目に入って、飛雄馬は弾かれたように顔を上げた。
「続けて、くれい……星、後生だから」
「…………」
望み通りに、飛雄馬は手を動かす。乾いた皮膚をしごいていた音にその内、水音が混ざるようになる。
飛雄馬の手が伴の鈴口から垂れるカウパーによって湿り気を帯びたからだ。飛雄馬の手指と、伴の逸物がこすれ合い、独特な音が部室内には響き渡る。時折そこに、伴のくぐもった声が混じって、飛雄馬は唇を強く引き結ぶ。
「あ………星、星っ」
そう言って名を呼ぶ伴の、この二学年上の一時期は高校柔道界の賞を総ナメにしたと言われる豪傑が恥ずかしそうに目を閉じ、体を戦慄かせている様が可愛らしくもあり、はたまた変に意地悪い心を煽るようでもあり、飛雄馬は下から掬うようにして持っていた逸物を、今度は小指側が下になるようにして持ち替えると濡れた掌ですりすりと亀頭部位のみを責めた。
「ばっ、星っ………にゃにをっ、あ、っあ」
腰が引け、伴は顔をしかめる。
「気持ち、いいか?」
飛雄馬が尋ねると伴は頷き、荒い呼吸を繰り返しつつ、いきそうじゃあ……と呟く。
「いく……?」
「あっ!星ぃっ!」
叫ぶかのように伴は名を呼んで、ちょうど亀頭を責めていた飛雄馬の手の中に精を吐いた。
「………!」
掌と指に何やら温かい液体が付着して、飛雄馬はビクッ!と体を震わせる。
ヒクヒクと手の中の伴自身が脈打つたびに、掌に温かい液体が撒かれて、飛雄馬は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返す伴の顔を、その脈動が収まるまでどうすることもできず見上げていた。
「は、っ………はあ〜っ!ふう〜っ!星…………」
「……………」
飛雄馬はそこでようやく手を離し、指と掌に付着した白い液体に視線を遣る。これは、確か精液だとか呼ばれるものだろう、ということは飛雄馬にも察しはついた。
伴に渡されたティッシュでそれを綺麗に拭って、飛雄馬は穿いている黒のスラックスで掌を擦る。
確か、この精液を女性の中で放つと、子供ができる、と言う話を飛雄馬もどこかで聞いたことがあった。それもいつか、教室でクラスメイトたちが話していた会話の内容を耳にしたのを覚えていたのかもしれない。それならば、伴はなぜ、男のおれの掌でこれを放出したいと思ったのか。
なんのために。伴はおれをすきだと言ったが、それはおれとどうなりたいと、彼は考えているのか。
男同士で子を成したなんて話は古今東西、世界中見渡したって聞いたことがない。
「ほ、星、すまん!」
身支度を整えたらしき伴は一人、そんなことを夢想していた飛雄馬の前で深々と頭を下げる。
「………すまん、とは」
「こんな、こんな妙なことを星にさせてしもうて……おれは」
伴は一度精を放ったおかげで頭が冷え、今頃になって冷静さを取り戻したらしかった。飛雄馬は頭を下げたままの伴に顔を上げるように言うと、「いつもこんなことをしてるのか、一人で」と尋ねた。
「え………?」
今度は伴が驚く側であった。なぜそんなことを訊く。なんのために、なにを思って。
「ここで、誰もいなくなった部室で、一人、おれを思って」
「……………」
飛雄馬の気迫に伴は思わず後退る。一歩、二歩と伴は飛雄馬と距離を取るが、飛雄馬はその分、彼との間合いを詰めた。
「ほ、し………」
「ふっ、ふふふっ………はは、伴よ。帰ろう。さっきはあんなに大胆に触ってくれと言ってきたくせに、ことが終わればいつもの調子だな」
飛雄馬の瞳に射抜かれ、呼吸するのも忘れていた伴は飛雄馬が目を細めると声を上げ笑ったもので、ほうっと胸を撫で下ろす。
そうして、こちらに背を向け、先に部室を出て行こうとする飛雄馬の後を追うようにして一歩を踏み出した伴に対し、恐ろしい言葉が投げ掛けられた。
「伴は、おれを抱きたいと思ったのか?」
飛雄馬の低い声が伴の頭のてっぺんから足の先までを射抜いた。足がその場に縫い留められでもしたかのように動かない。
「な、ぜ………?」
「なぜ?昔どこかで──いや、誰かが話していたのを聞いたことがあった。先ほど伴が吐き出した液体を、女性の中で放てば赤ん坊ができると。それから察するに、つまり」
「そ、そうじゃい!!うう……そうまで言われてしもうたら白状するわい!おれは、星を抱きたいと思った!思うこともいかんのかあ!?いや、その……手を汚したことは謝るが、さっきのことが許せんと言うのなら、顔も見たくないというのならおれは潔く野球部を去る!あ、当たり前のことじゃ!」
赤くなったり青くなったりを繰り返しつつ伴は素直に自分の気持ちを白状した。
飛雄馬は、まさかの応答に目をまんまるに見開いたまま伴を見据える。
「………伴」
「………素直な、気持ちじゃい。変に熱うなって悪かったのう」
「伴」
飛雄馬は伴の方を向き直る。
伴は立ち止まった彼の元へ数歩歩み寄って、真っ直ぐ二人見つめ合った。変に心臓の鼓動が早く大きい。こうして見つめ合うこと自体、けして初めてではないのに。
毎日、部の練習で互いに向かい合って、見つめ合って、視線を絡ませ合いながら汗を流しているのに。
伴の熱く大きな掌が飛雄馬の頬に触れる。 耳に指が触れて、飛雄馬はぶるっと身を震わせ、一度上下の唇を擦り合わせたあと、静かに瞼を伏せた。
「星………」
吐息混じりに名を呼ばれて、伴の気配がゆっくりと近付いてくるのが分かって、飛雄馬は大きく息を吸う。
「すきじゃあ、星……」
何度も名前を囁かれ、すきだと言われるたびに体が熱くなるのを飛雄馬は感じる。
もっとさわってほしい、なんて、どうしておれは、そんなことばかり考えるのか。
「あ…………」
「こらあ!!!!誰だいつまでも部室に残っとるのはあ!!!」
突如として部屋に舞い込んできた怒号と人の気配に、伴と飛雄馬の二人はそれこそ飛び上がらんほどに驚き、体を離すと声のした方向を見つめる。
「あ、天野先生………」
部室の出入り口に立っていたのは、この青雲高校野球部顧問を務める天野先生であり、今日は宿直当番でもあるのだろうか、普段ならとっくに帰っている時分だろうにこうして明かりのついたままの部室を訪ねてきていた。
「伴と星の二人、仲が良いのは良いことだが、さっきうちの宙太がまだ帰っとらんとPTA会長から電話があったんだ」
「あ……親父のやつう……」
「何が親父のやつう、だ!早く帰りなさい!男の子とはいえ何かあったらどうするんだ!」
「……それじゃあ、先生、また明日」
「ああ。また明日、練習に遅れるなよ」
「さようなら、天野先生」
二人、部室を出て、グラウンドを抜け校門より学校の外に出る。ここに来るまで並んで歩きこそしているものの、互いに言葉を交わすことはない。
「…………伴、また、明日」
「あっ、星、その」
足早に去っていこうとする飛雄馬を呼び止め、伴は口籠る。
「……….」
「その、嬉しかったぞい。色々、と」
しどろもどろになりつつ、伴はニコニコとその顔に笑みを携え照れ臭そうに頬を指で掻いた。
「……………」
「おやすみ、星」
言って、伴は自宅のある方向へと飛雄馬に背を向け歩き出す。飛雄馬はその広い背中を見つめはするものの、声をかけることはしない。
自分は言いたいことを言って出したいものを出して──それでいいかもしれんが、それを受け留めたこちらの気持ちについては何ひとつ考えてくれないのだな、と飛雄馬は伴の手の感触の残る頬を撫で、自分もまた、長屋への道を辿り始める。
触れてもらえなかった唇を上下に擦り合わせてから、部室にわざわざ取りに帰った学生帽を目深にかぶり直し、飛雄馬はごくり、と喉を鳴らして唾液を喉奥へと追いやると、変に熱の残る体を自分の腕で強く抱き締め、開いた唇からゆっくりと吐息を漏らした。