封書
封書 「姉さん、おかわり」
「お姉さんは今片付け中だけん、自分でしたらよかたい」
この日、京子は夫となる左門豊作の年の離れた弟妹たちに昼食を与えてから、中断していた荷作りに取り掛かった。数人の友人らに囲まれて厳かな式を挙げ、籍を入れてからしばらくは京子も左門たちとともにみどり荘に住んでいたが、この度、都内に一軒家を購入し、そちらに移るための引っ越し作業である。
京子は小さな弟や妹たちの声を聞きながら、顔を綻ばせつつ、押し入れの中の荷物を業者から渡された段ボールの中にひとつひとつ丁寧に仕舞い込んでいく。
まさか、再び東京に舞い戻る羽目になるとは夢にも思わなかった、と、京子は手を動かしながら夫と再会した日のことを思い返す。
地方に高飛びし、何とか住み込みの仕事をしながら糊口を凌いでいた自分の前に現れたのには心底驚いたものだった。
知り合いの興信所を使い、居場所を探り当てたと聞いたときには気味悪く思ったし、二度とその田舎臭い顔を見せないでほしいと追い返したものだが、それから週に一回は必ずこちらの様子を伺うような手紙が届き、その真面目さというべきか、不器用さには笑ってしまったものであった。
こんなに好いてくれるのはありがたいが、自分には身寄りがなく天涯孤独だし、いわゆるズベ公上がりの身、プロ野球選手として大成しているあんたの価値を下げることになると言ったとき、自分の両親は早くに死んでしまっていること、自分には幼い弟妹がいて、その子らを食わせるために野球をやっていると話してくれた。ああ、この男は、私と似ているのだと、私はその時、はっきりと自覚したのだ。
あねごと呼び慕ってくれるいわゆる家出少女と新宿で行動を共にし、女の身ひとつで生き抜くためには何でもやった。それでも一つだけ守り抜いてきたもの。
それを、私はこの人になら捧げてもいい、とそう、思ったものだった。
時折、電話で話す声は緊張しているのか震えていて、それが何だか愛おしく感じられて、今までろくでもない男ばかりを見てきた私からしてみればひどく新鮮に映りもした。そんな思春期の少年少女のやり取りを数ヶ月ほど続けていたさなか、電話口で行われたプロポーズに、私は涙ながらに頷いたものだった。
東京に戻れないわけについて深くは尋ねないが、何かあったときには自分が守るから、と、そう言ってくれたことが何より嬉しかったのだ。
「…………」
夫との馴れ初めを回想しつつ、ふと、京子は封書の束が紐で括られているのを見つけ、何気なくそれを手に取った。すると、一番上に置かれていた封書の差出人の名に目が留まり、ハッ!と息を呑む。
そうして、夫の弟妹らがこちらを見ていないことを確認すると、その一枚を束の中から取り出し、封筒の中に入ったままになっていた便箋を取り出した。
差出人には、行方不明になっているあの人の名前が書かれている。私が、生まれて初めて恋をした彼の名前。その名前を目にしただけで体が火照る。
まさか、こんなところで目にするとは。
夫には悪いと思いつつも、京子は綺麗に折り畳まれていた便箋を開き、中を確かめる。
「…………ああぁ、っ!」
内容を確認し、京子は堪えきれず嗚咽を漏らした。
「姉さん?」
「京子姉さんどげんしたと?」
「浮気の証拠でもあったとね?」
「ばか!あんちゃんがそげんこつするもんか」
「大丈夫、ごめんなさい……大丈夫よ」
気丈に振る舞ったつもりだが、声が震えてしまう。
私は何も知らなかった。あの人が、私が生まれて初めて恋をした彼のことを、なにひとつとして。
それなのに私はひとりだけ幸せになろうとしている。
私、夫を愛することであなたを忘れようと努力したわ。それでもこの不自由になってしまった小指を見るたびに、あなたが私を抱いて街中を歩き回ってくれたことを思い出してしまう。
星さん、私、あなたが好き。忘れるなんてできっこない。
「姉さん、大丈夫ね?あんまり頑張りすぎんでね。私たちもおるとだけん」
「そうそう。姉さんの身に何かあったらぼくたちが怒られ、あいて!」
「しっ!変なこと言わんとよ」
「うふふ、ごめんなさい。もう大丈夫よ。それよりもう食事は済んだの?」
京子は手紙を封書の束の中にきちんと戻してから目元を拭うと、弟妹たちの待つ、玄関から入ってすぐの部屋へと戻った。
「うん!おいしかった!ごちそうさま」
「私、片付けるから姉さんは座ってて」
「いいのよ。私がやるわ」
「でも……」
長女のちよが気遣い、重ねた食器を手に立ち上がったのを見て、京子はそれなら一緒にやりましょう、と微笑んで見せる。
「みちもやる〜!」
「みちはあっちで遊んでらっしゃい。前もそがん言って皿ば割ったでしょ」
「やだ!やる!」
「ふふ、それなら洗ったあとにふきんで拭くのを手伝ってちょうだい。あとの三人はテーブルの上を拭いて、銭湯に行く準備をしてね」
「うん!」
「…………」
人数分の汚れた食器を台所の流しに運び、京子はそれらをスポンジで洗っていく。
「姉さん、どげんしたと?表情が暗かよ」
「そ、そうかしら?」
「姉さんが来てくれて私たち、とても嬉しかとよ。私やじろう、まさひろは母さんの記憶があるばってん、下のさぶとみちはほとんど顔も覚えとらんけん……」
京子は、嬉しそうに微笑むちよの横顔を見つめ、この場を飛び出し、あの人を探しに行こうと一瞬でも、そんなことを考えた己を恥じた。
一緒に高飛びしたあの子らは、元気にしているだろうか。あなたたちを置いていけないという私を、どうか幸せになってと送り出してくれた彼女たち。
私がここを飛び出すということは、夫の弟妹たちはもちろん、あの子たちも裏切ってしまうことになる。
私はこれから、この想いを誰にも打ち明けることなく、隠し通さねばならないのだ。
いいえ、そうじゃない。私はあの人を忘れなければならない。もう私には夫がいて、大事な弟や妹がいる。それに夫は、子供がほしいとも言っていた。
「私を本当のお母さん、いいえ、お姉さんだと思って甘えてちょうだいね。今までちよちゃんひとりで豊作兄さんの代わりに家の中を守ってきたんだもの」
「…………」
「みちちゃんもいつもお手伝いしてくれてありがとう」
ちよの水で食器の泡を流す手が止まり、京子が声をかけたみちも誇らしげに笑顔を見せる。
「…………」
できることなら、一目会いたい、と思うのも今となってはいけないことだろうか。
ああ、これ以上考えてはいけない。私が私でなくなってしまう。私はもう、左門豊作という夫がいて、あの頃とは違う。髪も黒く染めて、口調も服装もあの頃とは違う。それにもう、私は夫に抱かれてしまった。
食器を洗い終え、京子はちよとみちに後を任せると、銭湯に行く準備をして待っていたさぶとまさひろ、そしてじろうに先に行っているように伝え、部屋を出ていく三人の後ろ姿を見送る。
ふたりの姉妹がこちらに背を向け、何やら楽しそうに片付けをしている声を聞きながら京子は、あの日新幹線で別れたきりの、彼の顔を思い出し、口元で小さく名前を呼んだ。