古傷
古傷 花形、さん、と飛雄馬は偶然、東京の街でばったり鉢合わせた阪神タイガースの天才打者であり、猛虎のプリンスの異名を欲しいままにしている彼の名を、驚いたように目を見開いたまま口にした。
「おや、星くん。そうか、今日の巨人戦はナイターだったね……フフ、すっかり油断していたよ」
「なぜ、花形さんが東京に?」
いつものように顔に笑みを携え、そんな台詞を吐いてきた花形に対し、飛雄馬は素直に思ったことを尋ねる。
やれやれ、とばかりに彼はそれを受け肩をすくめると、「ぼくの実家はもともと神奈川だ。空いた時間に関東を訪ねて何かおかしいことでもあるのかね」と逆に訊いてきた。
「……………」
「きみの顔を見に来た、などと言っても納得してくれる星くんじゃないだろうし……フフ、手さ」
「手?」
花形の飛ばした冗談に眉間に皺を寄せた飛雄馬だったが、彼の口から飛び出した、手という具体的な言葉に首を傾げる。
「……………」
花形は着ている上着のポケットに入れていた両手をそれぞれ取り出すと、飛雄馬の目の前で掌を上にしてぱっと開いてみせた。
するとどうだ、その掌はまだ生々しく傷が残っている──そう、この傷は花形満が飛雄馬の左腕が放つ魔球・大リーグボール一号を打ち果たすため、自動車工場にて夜な夜な彼が鉄のバットを持ち、鉄の球を打った際に負ったものだ。
名誉の負傷とも呼べるもので、花形はこの血まみれの泥だらけの、おおよそプリンスなどと言うキラキラした呼び名とは程遠い特訓のおかげで、見事九連勝を成し遂げた飛雄馬の魔球を打ち取ることができたのだ。あれからもう、だいぶ年月が経っていると言うのに未だ傷が治っていないとは。 飛雄馬は、ううっ、と呻くと小さくよろめく。
特訓については話には聞いていたが、ここまでひどいとは、と恐れおののいた面も確かにあるが、こうまでして、花形はおれの球を打ってくれたのか、という歓喜の思いも確かに、今、飛雄馬の中には存在した。
「………バットを握らぬ日はないからね。休みの日だろうと、なんだろうとぼくは練習を欠かさない。そのせいか治りが遅くてね。フフ、気休めだが東京の病院を訪ねてみたというわけさ。なんのことはない、治るまで練習を程々にしたらいい。けれども、だ、星くん」
「………一日休めば、もとの調子に戻るまで三日はかかるのだ、と」
「そのとおりさ、星くん。さすが察しがいい……ぼくがこうしている間にも、星くん、きみが手の届かないところに行ってしまうのではないか、という不安もこの花形、抱かんではない」
言って、花形は両手を再び上着のポケットへと忍ばせる。
「………………」
「ぼくの野球に掛ける情熱はきみを打ち取るためにあり、はたまたその命運を司るのもきみだ」
「また、そんなことを………」
「本当のことだよ星くん。きみを打つために手をこうまで壊したし、傷が治らぬのを承知で毎日練習に励んでいる」
花形はフフ、と再び笑みを浮かべると、目の前に立つ飛雄馬の左手を取った。
何事か、と呆気に取られている飛雄馬を気にも留めず、花形は自身の口元まで彼の手を持ち上げると、なんの躊躇いもなくその甲へ口付けた。
「う、わっ!!」
「会えて嬉しかったよ、星くん」
素っ頓狂な声を上げ、手を振り解くようにして距離を取った飛雄馬に対し、花形はいつもの調子でにやりと笑むと、あれ阪神の花形と巨人の星じゃないか?とざわつく野次馬がぞろぞろと辺りに集まってくる前に人混みに紛れ、姿を消す。
飛雄馬も慌てて人がごった返す前にその場を離れ、国道を走るタクシーを捕まえるとそれに飛び乗った。
「ジャイアンツの宿舎まで」
運転手にそう告げると、ジャイアンツの宿舎?と彼は声を裏返らせつつ尋ね返してから、バックミラー越しに飛雄馬を見た。
「………ほ、星さんじゃないですか!!いやー!アタシ、星さんの大ファンなんすよ!!えへへ!あとでサインお願いしやす!いやー!お会い出来るとは光栄です!」
一人ペラペラと饒舌に語る運転手の言葉をうまい具合に交わしつつ、飛雄馬はギュッ、と左手親指を拳の中に握り込んだ。
あの日、甲子園準決勝で負傷した指で臨んだ決勝戦。激しく出血する指の痛みを堪えつつ花形率いる紅洋高校相手に投げぬいたことをつい昨日のことのように覚えている。あの痛みは、忘れられようがない。
それなのに花形は掌すべてが血みどろだというのに、それを悟られることなく一人練習を続けていると言っていた。
一日も休むことなく、ただひたすら、おれを打つためだけに。
「……………」
座席の背凭れに深く背を預けて、飛雄馬は俯く。運転手は未だニコニコと何やら話をしているが、飛雄馬の耳には何ひとつ入ってはこない。
掌に握り込んだ親指がそのうちに痛み出して、飛雄馬は顔をしかめ、握り込んでいた指の力をゆるゆると緩めた。