風呂
風呂 伴の屋敷の浴室、大きな浴槽の中に張られた湯に肩まで浸かって、飛雄馬はふう、と無意識に溜息を漏らした。
日に焼けた肌に触れる熱い湯が、ピリピリとした痛みを感じさせてくれるのがなんだか心地よくて、飛雄馬は思わず顔を綻ばせる。
久しぶりに、機械相手ではなく、生きた球を打った感触。左腕時代、散々人間扇風機だなんだとなじられたものだが、おれはやれる。
サンダーさんがほんの少し、立ち位置や構えを変えてくれただけであんなに打てるようになるとは。
早く明日になってくれないものだろうか。
興奮して眠れないかもしれない。
飛雄馬はふふっ、と笑みを溢してから体を洗うべく湯船から出ると椅子に座り、持ち寄った手拭いを腿の上に乗せてからシャワーを使いつつ髪を洗っていく。
それにしても、切るのが億劫で伸ばしっぱなしになっていた髪が長くなったものだ。
伴はおれのこの姿を見て驚いたようだったが、それはこちらも同じ──体重などもう100キロ近くあると言っていたか。
伴のものらしいリンスインシャンプーで髪を洗いつつ、飛雄馬はこの家の家主、かの大親友のことを頭に思い描く。
今日も接待だとかで遅くなると言っていたか。
会社勤めと言うのは気苦労が多く、大変らしい。
酒の力を借りたくなるのも分からんでもないが、あまり飲みすぎんようにしてほしいものだ。
「うぉい、星ぃ~!おるかのう!」
飛雄馬は突然、自身の背後からひやりとした冷たい風が入ってきたのを感じた刹那、湯船の湯を揺らすほどに大きな声が耳に入って、思わずビク!と体を跳ねさせた。
「ば、伴!」
扉を背にし、右手に浴槽があり、その正面に洗い場があるような浴室の造りで、飛雄馬からはまったく伴の気配など感じられなかった。
振り向き様に飛雄馬が名を呼ぶと、ゲラゲラと伴は笑い声を上げながら、わしが流しちゃるわいとシャワーから湯を出し、いきなり頭上からそれをぶっかけてきたではないか。
うっ!と飛雄馬は反射的に目を閉じ、熱い湯がシャンプーの泡と共に顔の表面を滑り落ちて行く不快感に眉をひそめた。
「先方が用事があるとかで早めに終わってのう。思ったより早く帰れたわい」
「よ、よせ!酔ってるのか」
耐え兼ね、叫んだ飛雄馬だったが伴はあっけらかんとしており、かかり湯をするや否やドボンと浴槽に飛び込んだ。
そのせいで湯が浴槽の縁を越えて溢れ、音を立てて排水口へと吸い込まれていく。
まだ髪に泡の残った状態で放置された飛雄馬は怒鳴りつけたいのを堪えつつ、大きく深呼吸をすると伴がかかり湯をするために使用し、フックにかけたシャワーを手にするとハンドルを捻り、湯をかぶる。
「いい湯ぞい。風呂はいいのう」
「…………」
まったく、いい気なもんだ。人にいきなり湯を浴びせかけておいて。
しかし、伴にはサンダーさんのこともそうだが、こうして居候させてもらっている恩もある。
これくらい我慢しようじゃないか。
飛雄馬は泡を流すと、今度は体を洗おうと腿の上に乗せていた手拭いに石鹸をこすりつけた。
「背中を流させてくれい」
泡立てた手拭いで腕を擦り始めたところ、伴が手を差し出してきて、飛雄馬は一瞬躊躇ったが、下手に断ると面倒臭いことになるなと素直に従うことにした。
伴は浴槽から出ると、飛雄馬の背後に周り、受け取った手拭いで背中をこする。
「痛いぞ、伴。力が強すぎる」
「ん、そうかのう。これでも加減しとるつもりなんじゃが」
「…………」
「しかし、こうしとると一緒に宿舎に住んどったときのことを思い出すのう。こうしてよく背中を流し合ったものじゃい」
「ふふ、おれも今、伴と同じことを考えていた」
「…………星が病院から姿を消したと聞いたときは生きた心地がせんかったが、こうしてまた背中を流すことができて嬉しいわい」
泣きでもしているのか、伴の声が心なしか震えている。飛雄馬は、そうだな、と短く返事をすると伴から手拭いを受け取り、そのまま全身を洗い上げた。
「伴、代わろう。おれが今度はきみの背中を流す」
背中を流したあと、再び湯に浸かった伴に飛雄馬は声をかけ、座っていた椅子を空ける。
「に、にゃんじゃと!?い、いいわい!自分でやるから。星はさっさと上がって飯にせい」
あたふたと伴は飛雄馬の言葉に取り乱し、顔を勢い良く左右に振った。
「これくらいさせてくれ。でないとおれの気が収まらん」
「う、うむ……」
伴は、酒のせいか湯に浸かりすぎたお陰か顔を真っ赤にしながら飛雄馬の空けてくれた椅子へと腰掛ける。
「ずいぶん、洗い甲斐ある背中だな」
「う、うるしゃい。わしだって気にしとるんじゃぞ」
「食べるのもいいが体を動かさんとな」
石鹸で泡立てた手拭いで飛雄馬は伴の広い背中を流しつつ、先程頭から湯を浴びせられた復讐と言ってはなんだが、そんな嫌味を口にした。
「耳が痛いわい」
「…………」
がっくりと項垂れた伴に手拭いを渡し、今度は入れ替わりで飛雄馬が湯船に浸かる。
だいぶ湯は減ったが、足すまでもあるまい。
伴がいそいそと体を洗うのを眺めながら飛雄馬は愛おしげに目を細めた。
「なんじゃあ、人の顔を見てにやにやしおって」
「ふふ、いや、おれはいつも伴に助けられてばかりだなと思って……いい友人を持ったなとしみじみ考えていた」
「神妙な顔をしてそんなことを言うのはやめてくれんかのう。ドキドキするわい」
「ふふふ……」
伴は足元に転がっていた洗面器で、飛雄馬の浸かる湯船の湯を掬うと、頭からガバッとそれをかぶる。
それを何度か繰り返してから今度はシャンプーを手に取り、頭をわしゃわしゃと豪快に洗い始めた。
泡が四方八方に飛び散り、飛雄馬は再び、うっ!と声を上げ、伴!と叫んだ。
「ん?なんじゃい」
「泡が飛んできたぞ。まったく。おれがいることを忘れとるだろう」
「すまんすまん。そんなつもりはなかったんじゃが」
ニカッ!と伴は笑みを浮かべると、先程と同じ工程を数回繰り返し、洗髪を終える。
そうして、飛雄馬と向かい合うようにして湯船に浸かった。
伴の体積分、湯の嵩が増してまた浴槽の縁から湯が溢れる。
「ふう〜〜!あったまるのう。極楽極楽じゃい」
「湯がもったいないぞ、伴」
「なーに。星が気にすることじゃないわい」
豪快に伴は飛雄馬の嫌味を笑い飛ばすと、いつになく真剣な顔をして距離を詰めてきた。
「……伴、よせ。妙な気を起こすのならおれは出るぞ」
「星が悪いんじゃい。さっき変なことを言うから」
「すぐ人のせいにするのはやめてくれ」
「うぐぐ…………」
茹でダコのごとく顔を耳まで真っ赤にして黙りこくる伴がおかしいやら愛おしいやらで飛雄馬は、あと少し、開いていたふたりの距離を縮めると、伴、と名を呼んだ。
「な、なんじゃ……あっ」
顔を上げた伴の口に飛雄馬はそっと己の唇を押し当て、ニッ、と微笑んでみせた。
「しっかり温まってから出るといい」
口を間抜けにあんぐりと開けたままの伴を残し、飛雄馬は絞った手拭いで体を拭うと浴室を後にする。
脱衣所で改めて乾いたタオルで水気を取ってから、下着を身に着け、浴衣を羽織った。
伴に付き合っていたらすっかりのぼせたようだ。
額に浮いた汗を、肩にかけたタオルで拭いつつ飛雄馬は廊下に出ると、台所で夕飯の準備をしていた老女──おばさんに少しのぼせたようなので部屋で休んでから顔を出します、と断りを入れ、伴から与えられている部屋でようやく一息ついた。
サンダーさんは日本語が不自由ながらも、酒が入っているせいか台所でおばさんと盛り上がっているようで、その光景が微笑ましく飛雄馬の目には映った。
このまま眠ってしまいたいが、そういうわけにもいくまい。せっかくおばさんが夕飯を作ってくれているのに。
飛雄馬は入ってきた部屋の入り口に足を向けるような格好で横になり、ひやりと冷たい畳を背にして天井を仰ぎ見た。
しばらくは背中が冷たく心地良いが、すぐに己の体温で温まるため、飛雄馬は寝返りを打つが、いつの間にかうとうとと微睡み始める。
と、板張りの廊下をドタドタと音を立てながら走る足音に、飛雄馬ははっ!と顔を上げた。
坊っちゃん!と老女が声を張り上げるのが聞こえた刹那に、飛雄馬の部屋の出入り口、廊下と部屋を仕切る襖がスパーン!と開けられ、浴衣を着ているとは名ばかりの肩ははだけ、下着が合わせからは丸見えの状態の伴が顔を出した。
「ば、ん……」
「ええい!うるさい!すぐ行くから待っとってくれい!サンダーさんにも伝えてくれ!」
追いかけてきたらしき老女を怒鳴り散らし、伴は肩で息をしつつ飛雄馬の部屋に押し入ると後ろ手で襖をこれまた勢い良く閉じる。
「星、なんで逃げたんじゃあ」
「逃げた……?話が見えんが、おれは先に出ると言ったまでだが」
「うんにゃ、逃げたわい。わしに抱かれるのが怖くて星は逃げたんじゃ」
「…………」
目が据わっている。先程のことがよほど尾を引いているらしい。
「星、わしがどれだけ寂しかったのかわからんのかあ。毎日、毎日……星ぃ」
伴が言い終わるが早いか、その双眸から涙がぼろぼろと溢れ始めたために、飛雄馬はぎょっと目を丸くし、眼前の顔に見入った。
「もう星がいなくなるのは嫌じゃあ。ひとりは寂しいわい」
「……ひとりじゃ、ない、だろう、伴は。おばさんだって親父さんだっているじゃないか。それに、今では花形さんたちと家族ぐるみの付き合いもしているそうじゃないか」
「そうじゃないわい!はぐらかすな星!」
伴は言うなり飛雄馬の足元に身を屈めると、手と膝を使い距離を詰めていく。
そのまま飛雄馬の畳の上に投げ出していた足に跨り、顔の横にそれぞれ両手をついた。
「う……」
「なんで逃げんのじゃあ」
「……逃げたら余計面倒なことになるだろう」
「わしのためっちゅうのか、星!お前の気持ちはどうなんじゃあ!」
「静かにしろ、伴。おばさんやサンダーさんもいるのに」
飛雄馬の頬や額に伴の瞳から溢れる涙の雫が滴り落ちる。
「自分より他人を優先するのはもうやめるんじゃ!お前は、星は自分の人生を生きろ!」
「…………」
それは、その言葉はそっくりそのままきみに返そう、伴。
おれの球を捕るために野球部に入部してくれたばかりか、入団テストにまで着いてきてくれたじゃないか。
練習が終わってくたくたになっていようとも、雨が降っていようとも、おれが声をかければ特訓に付き合ってくれたじゃないか。
そんな優しいきみと出会えて、おれは本当に良かったと思っているんだ、伴。
飛雄馬は手を伸ばし、伴の頬を伝う雫を指先で拭う。
「ほし、星よう〜、わし、仕事中も怖いんじゃ。星がまたいなくなってしまうんじゃないかと気が気じゃないんじゃあ〜」
「ばか、おれがそんなことをするわけないのは伴がいちばんよく知ってるだろう」
「それはそうなんじゃがあ〜」
「おれはもうどこにも行かんさ、心配するな」
「星ぃ~!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を押し付けるようにして伴は、飛雄馬の体を抱き締めた。
「せっかく風呂に入ったのに台無しじゃないか」
伴の背中をさすってやりながら、飛雄馬は苦笑する。
「うっ、うっ。星よう」
「もう30になろうと言うのに女々しすぎるぞ」
飛雄馬が言うと、伴は鼻を啜りながら抱き締める腕の力を緩めた。
「年のことは言わんでもええじゃろう」
「そろそろ身を固めることを考えろ。寂しいんだろう」
「ふん、わしが結婚したらいちばんショックを受けるのは星じゃろうに」
「どうだかな……」
ふふ、とふたり、顔を見合わせ微笑み合うと、伴がそっと薄く開いた唇を寄せてくる。
飛雄馬はおばさんが待ってるぞ、と小さく囁いてからその口付けを受けた。
涙に濡れた口付けは、いつになく熱を孕んでおり、ほんの少し、塩気を帯びた舌が胸を切なくさせる。
そこで水を差すように、ぐすん、と伴が鼻を啜ったのがおかしくて飛雄馬は吹き出すと、顔を逸らした。
「笑うな、星」
「鼻をかんだらどうだ、ふふ……ひどい顔だぞ」
「まったく、興を削ぐようなことばかり言うのう、星は」
「こっちだってそういうことをするからには、ふふ……鼻を垂らされていたら集中できんからな」
「ご愛嬌じゃい、そんなのは」
「ばか……」
伴は一旦、飛雄馬から離れるとティッシュ箱を探し、辺りを2、3回見渡してから目当てのものを見つけると、中身を数枚取り出して鼻をかんだ。
この頃にはすっかり気分も落ち着いていて、飛雄馬は濡れたままの髪を掻き上げると、とりあえず夕飯にしないかと尋ねた。
「そうじゃな、夜は長いしのう」
ニンマリ、笑みを浮かべた伴を再び、ばか!と罵ってから部屋と廊下を仕切る襖を開けると、そこには台所で談笑していたはずのビル・サンダー氏と老女が立っており、さあっと飛雄馬の顔から血の気が引く。
「オウ!コレハ、違イマス!喧嘩ナラ仲裁シナケレバト思ッテ」
「そ、そうですよ、坊っちゃん!決して聞き耳を立ていたわけでは……」
「ふっ、ふっ、ふたりともあっちに行っとれ~い!!」
屋敷の壁や窓を震わせるほど大きな声で伴が叫ぶと、ビル・サンダー氏と老女はこれまたドタバタと大きな足音を立てながら廊下を駆け抜け、角を曲がって行った。
「まったく、人の一大事をなんじゃと思っとるんじゃ」
「伴、金輪際、おれに触れないでくれ」
飛雄馬は冷ややかに言い放つと、浴衣の乱れを正すなり部屋を出ていく。
「なっ!?なんでそうなるんじゃあ!星!撤回してくれえ!」
足早に廊下を行く自身の後を、ペコペコと頭を下げながら着いていく伴を横目で見遣りながら、飛雄馬はおれは一生、伴に頭が上がらんのだろうな、と苦笑しながらも、台所に到着するまで沈黙を守り通した。
その後、しょんぼりと項垂れる伴をサンダー氏と老女が慰めるのを飛雄馬は黙って見守りつつ、しばらくはお灸を据えるためにもこのままでいよう、と夕餉の味噌汁を口に含むと、そんなことをひとり、考えたのだった。