不眠
不眠 飛雄馬が部屋の掃除機かけを終え、スイッチを切ったと同時に、ここに越してくる際新しく購入した二層式洗濯機もまた、脱水を終えたもので、部屋の中は一瞬、静寂に包まれる。
早いところ洗濯物を干さないと、皺になってしまう。
飛雄馬は額にうっすらと浮かんだ汗を拭うと、コンセントからコードを外した掃除機を元の位置に片付けてから脱衣所に向かった。
おれたち姉弟の知らぬ間に、世の中はこんなに便利になってしまっている。
長屋にいた頃は洗濯と言えばねえちゃんが共用の井戸から水を汲み、洗濯板で一枚一枚擦っていたし、掃除にしたって茶殻を畳に撒いて、それを箒で掃くなんて今、考えてみれば何とも時代遅れなことをしていたのだから驚きだ。
この新築の、クラウンマンションに引っ越す際、さすがに洗濯板で洗濯を、というわけにもいかぬから、伴と連れ立ち向かった電器屋で文明開化の機器たちがずらりと並ぶ様に驚いたものだった。
それが今や、なくてはならぬ必需品となってしまっている。
特に、今のおれのように男のひとり暮らしは──そういった機械に頼らねば何ひとつ満足に出来やしないだろう。
飛雄馬は洗濯槽から下着や衣類を取り出すと、それらを籠に入れベランダへと運ぶ。
衣紋にかけた衣服を物干し竿に引っ掛け、更に皺を伸ばすように肩口や裾をやや左右に引っ張る。
それを何度か繰り返しつつ、飛雄馬は今日は天気もいいし、布団も干そうかな、とそんなことを考える。
洗濯籠の中身を空にしたあと、飛雄馬はふと、何気なくベランダの縁から下を覗き込んだ。
すると、マンションの下で手を振る人間がいることに気づいて、目を凝らす。
「〜〜──し、──ほし〜!」
飛雄馬は下からここまでほんの少しだけ耳に入る声と、その容貌から手を振る人──彼がおぼろげながらも伴宙太であろうことを察する。
「ばーん!早かったな!」
ありったけの声を出し、飛雄馬は下にいる伴らしき人物に手を振ると、走って玄関先へと向かった。
それから、待つこと数分ののちに来客を告げるチャイムが鳴り、飛雄馬は逸る気持ちを抑えつつ扉を開けた。
「おう、星よ。昨日ぶりじゃい」
案の定、扉を開けた先に立っていたのは親友・伴宙太で、顔を突き合わせるなり、わはは、と豪快に笑った彼に飛雄馬もまた、微笑みを返しつつそのまま部屋の中に案内する。
「伴のことだからもう少し遅れてくるかと思っていた」
「星が寂しかろうと思ってのう」
「寂しいのは伴だろう。ふふふ」
「にゃにおう!」
「そう怒るなよ」
くすくす、と飛雄馬は笑い声を上げながら、とりあえず座ってくれよとリビングにあるソファーに伴を腰掛けさせた。
「今日は部屋の片付けを一緒にするという約束じゃったろうにこう、綺麗に整理整頓されとるとおれの出る幕はなさそうじゃい」
「早くに、目が覚めてしまってな。たまにはゆっくり、テレビでも観ようじゃないか」
コーヒーでも飲むか?と飛雄馬は続けつつも伴の言葉を待つことなく、台所に立つとやかんに水道の水を注ぎ入れた。
「昨日はゆっくり、眠れたか?」
「…………」
無言のまま飛雄馬は蓋をしたやかんをコンロの五徳の上に置くと点火ツマミを捻り、そこに青い炎を灯す。
湯が沸くまでには、しばらく時間を要する。
その間に、コーヒーの準備をしておくべく、飛雄馬は戸棚を開け、揃いのマグカップをそれぞれ調理台の上に並べた。
「星よう、きさま……宿舎に戻る気はないのか?」
伴がぽつり、とそんな言葉を漏らすのにもわけがある。この広い、ファミリー向けマンションを飛雄馬がわざわざ契約したのも、姉である明子と同居するためであったからだ。
男ひとり、住むのであればここまで広い部屋に住む必要はまったくなく、飛雄馬が不動産屋に掛け合い、見つけたのがこの新築ファミリー向けマンションであり、そればかりか部屋にある家電製品やソファーの類は、すべて明子の希望したものである。
飛雄馬は彼女の要求をふたつ返事で聞き入れ、伴に手伝ってもらいながら部屋に搬入した。
それであるにも関わらず、明子は数日前に自分の荷物を纏め、飛雄馬には書き置きひとつ残さないまま忽然と姿を消したのだ。
飛雄馬は帰宅してすぐ、姉の姿がないことに気づいてバイト先のガソリンスタンドに連絡したものの、数日前に突然退職されて困っていると言われ、申し訳ないと謝罪をしたその足で、徹夜で辺りを探し回る羽目になった。
電話帳をめくり、手当り次第、心当たりのある近郊のガソリンスタンドに電話をしてみたところで手掛かりはなく、ここのところ飛雄馬は寝不足が続いている。
ゆえに、伴はそんなことを口にしたのだった。
「うん……それも考えたが、ここを引き払ってしまうとねえちゃんの住むところがなくなってしまうだろう」
「……それは、そうじゃが」
「いつも付き合わせて悪いな、伴」
ふ、と飛雄馬は口元に薄く笑みを浮かべると、ちょうど沸騰したらしいやかんの中身を、あらかじめ用意しておいたインスタントコーヒーの粉を溶かすためにマグカップの中に注ぎ入れた。
コーヒーの良い匂いが部屋の中に漂い、飛雄馬はホッと人心地つく。
伴の言うとおり、ここを引き払い、宿舎に戻った方がおれの精神衛生上、良いことはわかっている。
ひとりだと、ついつい良からぬことを考えてしまうから。
ねえちゃんが消えてからと言うもの、少しでも物音がすれば目が覚めるようになってしまったし、眠れたとしても短時間で覚醒してしまうことが増えた。
ねえちゃんにも、何かしら考えがあってのことだろうが、連絡くらいしてくれてもいいだろうに。
一体、どうしたと言うんだろう。
「そ、それならおれがここに住むというのはどうじゃ?明子さんが帰ってくるまでの間だけ……」
「そんなことをして、親父さんに知れたらまたひと悶着あるんじゃないか」
「お、お、親父がなんじゃい!あんなの、知らんわい」
「…………」
飛雄馬はコーヒーの入ったマグカップをそれぞれ左右の手に持ったまま伴の待つリビングへと向かう。
そのふたつをテーブルの上に置いてから、砂糖とミルクを取りに飛雄馬は再び台所に舞い戻る。
が、ミルクを切らしていたことに今更気づいて、飛雄馬は伴に、すまん、買うのを忘れていた、と謝罪の言葉を口にしつつ、リビングの絨毯敷きの床に腰を下ろした。
「ん……そうか」
「飲めんか?」
「い、いや、飲めんことはないが……」
飛雄馬から手渡された角砂糖入りの容器を受け取りつつ、伴は歯切れ悪く何やら物足りなさを口にする。
「…………」
ねえちゃんがいてくれたら、こんなこと有り得なかっただろうに。
飛雄馬は角砂糖をひとつ、コーヒーの中に沈めるとティースプーンでマグカップの中身をぐるぐると混ぜ合わせる。
伴が角砂糖をみっつほど投入してから、ティースプーンで中を撹拌させる様を見つめつつ、飛雄馬はコーヒーを啜った。
「これはこれで悪くないのう」
「……嘘が下手だな、伴は」
「う、嘘なんかついとらんわい。ミルク抜きのコーヒーもうまいぞい」
飛雄馬はふた口目を啜り、テーブルの上にマグカップを置く。
「無理して飲まなくてもいいからな」
「星、もう一度真剣に、考えてくれんか。宿舎に戻る話を。明子さんのことが心配なのはわかるが、おれは星の体が心配じゃあ。ただでさえ大リーグボール2号を投げるために普段以上に神経を尖らせとるっちゅうのに」
「考えては、おくさ」
答えながらも、飛雄馬はここから動くつもりは更々ない。伴がここに住むという案に、一瞬、同意しかけたが、これ以上彼に負担をかけてはいけない、との理性が働き、押し黙った。
と、いつの間にか伴が腰を上げ、こちらを見下ろしているのに気付く。
伴?と訝しげに尋ねた飛雄馬の体は、次の瞬間、伴の腕の中に絡め取られている。
ぎゅう、とその広く大きな胸に顔を押し付けられて、飛雄馬は自分の瞳に涙が滲む感覚を覚えた。
「ひとりで抱え込まんでもいい。辛かったら親友のこの伴宙太を頼れ」
「ふ、ふふ……伴よ、気持ちはありがたいが、これはおれたち家族の問題だ」
「今更なんじゃい!親父さんが中日に行った時点で、うんにゃ、星と巡り会えたこと自体、親父さん主導のことじゃったろう。よって、おれと星は家族も同然じゃい」
「……!!」
「あっ!?いっ、いや、今のは、い、言い過ぎたわい……」
がばっ、と飛雄馬の体を引き剥がし、伴は顔を真っ赤にしつつ照れ笑いを浮かべる。
「伴……」
飛雄馬はしどろもどろになりながら視線を左右に泳がせる伴の唇にそっと、涙に濡れた自分のそれを押し付け、驚きのあまりバランスを崩した彼の体を、そのまま床の上に押し倒した。
「うう、う!ほ、星っ!きさ……っ」
何事かと慌てる伴の唇を、何度も何度も啄んで、飛雄馬は大粒の涙をぽろぽろといくつもいくつも、その頬に伝わらせる。
「…………」
「ほ、星っ……っ、落ち着け、っ」
飛雄馬は両の頬を伴の左右それぞれの手で掴まれ、口付けを中断させられたために涙に濡れた瞳を真っ直ぐに彼へと向けた。
「伴……」
「ヤケになっとらんか、星よう。お前らしくないぞい」
「…………」
目元の涙を指で拭い取られ、飛雄馬は大きく息を吐く。
「ヤケになるのが一番良くないぞい。星にはこの伴宙太がついとるから心配せんでもええ」
伴は、ずっとおれのそばにいてくれるか?
おれのそばから離れないか?
飛雄馬はともすれば、口から漏れ出そうになる女々しい言葉の数々を飲み込み、床に仰向けになっている状態から顔だけを上げ、唇を寄せてきた伴の口付けを受ける。
「ふ……」
ぬるっ、と口の中に滑り込んできた舌に身震いし、飛雄馬は吐息を漏らす。
ねえちゃんがいなくなって、おれたちは人目を気にせず、この行為に耽ることが多くなった気がする。
ああ、どうして、こんな時に浮かぶのはとうちゃんの顔なんだろう。
「星……」
熱っぽい声で名を呼ばれ、飛雄馬はビクッ!とそこで我に返る。
不自然に体を揺らした飛雄馬に伴も驚いたらしく、唇を離すと、星?と語尾を上げた。
「……なんでも、ない。すまん」
「……少し、休んだらどうじゃ?最近眠れとらんのじゃろう」
「伴には何もかもお見通しだな」
「なぁに、伊達に星の親友を務めてはおらんわい」
ニッ、と伴はその顔に笑みを浮かべると、飛雄馬の額に口付け、隣に眠るよう囁く。
飛雄馬もそれに素直に従い、伴の隣に体を横たえると、目元をぐいぐいと腕で拭った。
「ここだと風邪をひかんか」
「星が寝たらベッドに運んでやるから安心せい」
「……伴」
「なんじゃい」
「いつもいつも、本当にありがとう。感謝してもしきれないくらいだ」
「何かと思えば急に改まって……何も出らんぞい」
「ふふ……」
「ええい!いつまでもうるさいのう!人がせっかく押さえとるっちゅうのに!ただでさえ星に、ち、ちゅーされてムラムラしとるのに」
ふん!と伴は鼻を鳴らし、寝返りを打つと飛雄馬に背を向ける。
「……伴の、好きなようにしたらいい」
体を起こし、飛雄馬は背中を向けた伴の顔を覗き込むようにしながらそんな言葉を囁く。
「ば、馬鹿なことを!いい加減にせい!」
「…………」
「ヤケを起こすなとさっき言うたじゃろう。そんなことをして、余計虚しくなると思わんのか」
「伴」
「っ、ええい!!」
伴は弾かれたように体を起こすと、飛雄馬の方を向き直ってからすぐ、その身をためらいなく組み敷いた。
「…………」
「…………」
互いに無言のまま、視線を交わして数秒ののちにどちらともなく唇を重ねて、舌を絡ませ合う。
今度は、涙の味はしない。
ただただ、明るい部屋の中で、唇を貪り合って、勢いと欲望のままに互いを求める。
首筋に吸い付いた唇の力が強くて、痛いと思わず声を上げた飛雄馬に、すまんと謝罪しつつ伴は余裕のないままに組み敷いた彼の穿くスラックスと下着とを剥ぎ取った。
「はぁっ……星、っ」
床の上に投げ出された飛雄馬の足を撫でさすり、それぞれ左右に押し開くと伴は自分のスラックスを留めるベルトを緩めていく。
「ば、伴……待て、慣らしてない、から」
「あ、う……そ、そうじゃった」
伴は一旦体を起こし、何か潤滑剤になるものはと辺りを見渡したが、それらしきものは近くになく、しばし考えてから、二本の指を口に含んだ。
それにたっぷりと唾液を纏わせてから、飛雄馬の尻へと指を這わせ、中をゆっくりと探っていく。
「っ、ん、……」
腹の中をおそるおそるではあるが、入念に撫でられ、入口を解されて、飛雄馬は身をよじり、目を閉じると口元を腕で覆った。
ひとしきり、指は飛雄馬の腹の中を掻き回してから、満足したようにそこから離れていく。
飛雄馬は腹の奥をぐずぐずと疼かせながら、伴の体を両足で挟み込むように足を広げ、彼の来訪を待ち侘びた。
「い、行くぞい」
「…………」
言われ、飛雄馬は尻にあてがわれた熱に体を戦慄かせ、続いて、体の中へと押し入って来た圧に呻き声を上げる。
「っ、っ……相変わらず、っ、狭いのう……」
「伴のが、っ……お、おきっ……」
体を仰け反らせ、伴の腕に縋りつつ飛雄馬は眉間に皺を寄せた。
少しずつ、少しずつ腹の中を押し進む伴の体の一部を敏感に感じ取りながら飛雄馬はごくりと喉を鳴らす。
と、その内に伴はすべてを挿入し終え、一息つくと、両腕をそれぞれ、飛雄馬の脇の下を通すようにして床に手を着いた。
それから、顔を寄せ、唇を触れ合わせると伴は飛雄馬の尻にゆっくりと一度は引いた腰を叩きつけた。
「っ……星、星よう、いかん、腰が止まらんわい」
「ば、っ、いきなり……っ、そ──、うっ!」
伴の体重の乗った重い腰の一打がもたらす衝撃が、一気に背筋から脳天を駆け抜け、飛雄馬は大きく喘いだ。
固く、反った伴の男根が、飛雄馬の前立腺の位置を突き上げ、それを押しつぶす。
すると、激しい快感が全身に走って、飛雄馬は思わず肘を使って体を起こすとそれから逃れようと身をよじった。
腹の上に乗る半立ちの飛雄馬の男根からはとろとろと精液が溢れ出て、白い肌を汚している。
「星、逃げようったってそうはいかんぞい」
飛雄馬の腰を掴み、動きを封じてから伴はぐっ、と飛雄馬の尻に腰を押し付ける。
「あ、あ──、っ!」
そのままぐりぐりと腰を回して、中を掻き回すと伴は飛雄馬を呼ぶ。
「ごめ……っ、ごめんなさ、ぁっ……、いきたくなっ……ゆるして……」
「…………」
虚ろな瞳からボロボロと涙を滴らせ、開いたままの唇からは唾液を溢す飛雄馬を見つめながら伴は挿入したままの男根を抜くことなく、欲をぶちまけた。
「っ、ふ、ぅ──うっ、」
飛雄馬は腹の中で、ビクビクと脈打つ伴を感じつつ、涙に濡れた目を瞬かせる。
そのまま伴は飛雄馬から距離を取ると、先に後処理を終え、身支度を整えてから彼の傍らへと戻ってきた。
次第に、はっきりとしてくる意識の中で、飛雄馬は伴を呼び、隣に横になるよう伝える。
「先に、綺麗にしたらどうじゃ」
「いいから……早く」
言われるがままに体を横たえてきた伴の腕の中に飛雄馬は身を置き、汗混じりの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「星?」
「しばらく、こうしていてほしい……すぐ、すむから……」
言いつつ、飛雄馬は体を蝕んでいく睡魔に素直に身を委ね、伴の腕の中で眠りに落ちていく。
起きたら、昼食を食べて、それから……あれ、今こうして、おれを抱いているのは、伴?それとも……?
ああ、いいや、全部、起きてから……。
夢か現実かわからぬままに、あたたかな腕に抱かれ、飛雄馬はこのまましばし、何もかもを忘れて、深い深い眠りに就いた。