風呂敷包み
風呂敷包み ぐう、と美奈と連れ立ち、宮崎の町を歩いていた飛雄馬の腹が鳴った。あ、と飛雄馬は声を漏らし、頬を赤く染めてから、隣の彼女に、すみませんと小さく謝罪の言葉を口にする。
いいのよ──と彼女は微笑み、お腹が空くのは元気な証拠ですから──それにしても、もうそんな時間なのね、と白く細い手首に巻かれた女性物の腕時計に視線を落とした。
正午。
今日は日曜日であり、美奈が勤める沖診療所も休診日、飛雄馬が所属する読売巨人軍も練習は各自個人で、というお達しだった。
飛雄馬が前日に電話を入れ、時間と場所を指定し、美奈と再会してからおよそ三時間が経過している。
もっと彼女のことが知りたくて、おれのことを知ってほしくて、身振り手振りを加えながら飛雄馬は美奈に話を振る。
時折、通りがかったベンチに腰掛け、微笑む美奈を前に飛雄馬は生まれ育った東京という街について饒舌に語った。そうして、歩き始めた矢先の出来事。
「お昼にしますか。それとも診療所に戻られますか?せっかくのお休みなのに連れ出したりして──」
「そんなことないわ、星さん。美奈、とても楽しいの。宮崎にいると、なかなか県外の方にお会いすることってないのだけれど、東京という都会のお話を聞けてとても興味深く思いますわ」
「と、東京と言ってもおれがいたのは下町で──美奈さんが想像しているようなのとは少し違うかもしれませんが」
「星さんの話、美奈はとても好き。いえ、あなた自身が」
「えっ、」
どきん、と飛雄馬の心臓が跳ね上がると同時に、全身が熱くなる。目の前にいる彼女の、大きな黒い瞳にじっと見つめられ、言葉にならない。頭の中がぐるぐると渦巻いて、全身からは汗が吹き出す。
「お昼をよかったらご一緒しませんか。お弁当を作ってきたんです」
「えっ!」
二度目となる素っ頓狂な声を上げて、飛雄馬は美奈が手にしていた水筒の意味と風呂敷包みの中身を今頃ようやく知ることとなった。美奈さんにしては珍しく大荷物で、尋ねるのもどうかと思いそのままにしていたが、まさか弁当だったとは──飛雄馬は彼女が自分のために早起きし、弁当を作ってくれている姿を想像し、顔を緩める。
「近くに公園があります。そちらに」
「は、はい」
先を行く美奈の後ろを、飛雄馬はぎこちない足取りで続いた。しばらく歩いた先にあった公園は一面芝生に覆われており、日曜日ということも手伝ってか、子ども連れの家族やアベックの姿も見受けられた。
持ち寄ったらしき弁当を広げる人もあれば、食事はとうに済ませたのか、芝生の上を走り回る子どもたちの姿もある。
父親らしき男性に抱き上げられ、楽しげにはしゃぐ男児の姿に飛雄馬は目を細め、きゅっと唇を引き結ぶ。
「星さん?」
「あ、すみません」
「いえ、もしかしてお嫌だったかしら。無理に誘ったりして……」
「と、とんでもない!美奈さんのお弁当が食べられるなんて願ってもないことです」
必死に取り繕って、飛雄馬は美奈が腰を下ろした大きな木の陰に自分もまた、座り込む。
近くにあまり人はおらず、少し離れた場所では元気に子どもたちが駆け回っているのが目に入る。
「子どもはお嫌い?」
「え?」
風呂敷の結び目を解きながら美奈が尋ねた。
どうしてです、飛雄馬がそう、訊き返すより先に、さっき、父親に抱き上げられた男の子を見て、眉をひそめてらしたから──美奈が続けた。
「……子どもは、好きですよ。ただ、あの子のように父に抱いてもらった経験がおれにはないな、と、そう、思っただけです」
「お父様は、お嫌い?」
「嫌い、どう、でしょう。好きとか嫌いとか考えたことがなくて……野球は大嫌いでしたが、その、前も話したかもしれませんが、高校生の王さんに出会ってからは考えを改めることができて……嫌いとか、好きとかいう以前に、おれには物心ついたときから父と姉しかいませんでしたから」
風呂敷を開き、二段重ねの重箱を並べた美奈が最後に蓋を取り去る。中には煮物や卵焼き、肉巻きにおにぎりと言った色とりどりのおかずが所狭しと詰められている。
「あんなふうに抱いてほしかった、と?」
重箱と共に包んできたらしき箸と皿を飛雄馬へと渡しながら美奈が更に尋ねた。
「……おれが父と公園に行くのはもっぱら投球練習を行うときで、あの子たちのように無邪気に広場を駆け回ったり、姉の作った弁当を持ってピクニックというようなものではありませんでしたから。でも、そんな時期を経たからこそ美奈さんに出会えたと思うと、悪くはなかったのかなと思えます」
「無条件に愛してほしかったのね、お父様に」
「嫌だな、美奈さんのお弁当を前にこんな話……いただきます」
飛雄馬は苦笑すると、ごま塩の掛かったおにぎりを手に取り、それにがぶりと噛み付いた。
甘みのある米にごま塩の塩味が程よく感じられる。
ぺろりとおにぎりをひとつ平らげてから、飛雄馬は箸で摘んだ卵焼きを頬張る。
美味しい、ああ、なんて幸せなんだろう。
美奈さん、おれはあなたに出会えて、本当に良かったと、心の底からそう思います。
隣に座る美奈の横顔を、彼女に気付かれぬようそっと見つめながら、飛雄馬は鼻を啜る。
「お茶もよかったらお飲みになって」
蓋を取った水筒を差し出しつつ、美奈が囁く。
「美奈さんは食べないんですか」
「まずは星さんがお召し上がりになってください。野球選手は体が資本でしょうから」
「でも美奈さんも看護婦の仕事で体力がいるんじゃないですか」
「星さんを見てたら胸がいっぱいになってしまって……ふふ。星さん、本当に美味しそうに食べるから」
「いやあ、本当に美味しくて……」
水筒に入れてきた茶をコップ代わりの蓋に注ぎつつ、美奈がくすくすと笑みを溢す。
それを受け取り、一息に飲み干してから飛雄馬はふたつめのおにぎりを口に運ぶ。市販のふりかけがまぶされたおにぎり。
この時が永遠に続けばいいのに、と飛雄馬は柔らかな日差しを受け、風にそよぐ木々の葉を見上げながら、そんなことを思う。
しかして、楽しい時間はあっという間に過ぎ、日が傾き始め、騒がしかった公園内も人の気配はほとんどない。美奈はおにぎりをひとつと、卵焼きをひとつ食べただけで、あとは飛雄馬が黙々と食べ進める様子をじっと見守るだけであった。
「美奈さん、その、今日はありがとうございました。貴重なお休みを一日、おれのために使ってくださって……お弁当も美味しかったです」
「美奈も誘っていただけてとても嬉しかった。お弁当もお口に合ったみたいで安心しました」
「美奈さん、こ、今度はおれが食事をご馳走します。何かお好きなものや、食べたいものを教えてくださったら店を調べておきます」
「…………星さんと一緒なら何でも美味しくてよ」
「み、美奈さん……」
美奈の言葉に、飛雄馬はへらりと微笑む。
「日が暮れますわ。帰りましょう」
空の重箱を包んだ風呂敷を手に、美奈は立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
飛雄馬は彼女の後ろ姿を何を言うでもなく、じっと見つめながら、夕日の眩しさに、目を細める。
子どものはしゃぐ声と、帰宅を促す父母らしき男女の優しい声が妙に胸を締め付けて、飛雄馬は美奈に名を呼ばれるまで、その場から動くことができなかった。