ファンレター
ファンレター 読み切り32ページ。
題材は先生の好きな野球で──そう言った編集の眉間に皺を寄せた顔を思い出し、牧場は机の上で頬杖をつく。締切は明後日。
ネタを思いつき、鉛筆を白い帳面に走らせるが、どうもしっくりこないことがここ十数回。気ばかり焦って、主人公を投手とするか、打者とするかそれとも捕手、または野手とするかそれさえも思い付かない。
参ったな、自分の漫画家になるという夢もここで終止符を打たざるを得ないのか、と牧場は机の上に置いたひとつの写真立てに視線を落とす。
そこに写るは、牧場が卒業した青雲高校そのふたつ後輩に当たる星飛雄馬という青年であった。以前、まだ牧場が在校生であったときに無理を言って撮らせてもらったものだ。
嫌だと渋るのを何とか口説き落としたためか、はにかんだようななんとも言えない表情を浮かべている彼が今、まばゆいカクテル光線を全身に浴び、後楽園球場を本拠地とする巨人軍のエースにまでなっていようとは。
彼は果たして、ぼくのことを覚えているだろうか──いや、きっとぼくのことを恨んでいるに違いないだろう。
星くんは、ぼくに何にも言わず、ただ一人PTA会長闇討ちの犯人という汚名を被り、青雲を去った。
ただの友人、いや、友人と言うのもおこがましいほどの一人のファンでしかないぼくのためにそこまでしてくれた星くんに、ぼくは何が出来るのだろうか、とそう考えたときに、いつか星くんにした夢の話を思い出して、ぼくは漫画家になろうと一念発起した。
漫画家になって、この道一本で食べていけるようになったら、星くんに会いに行こう、と。
高校を出てすぐに送った投稿作が佳作に入って、編集がついて読み切りがちらほらと雑誌に載るようになって、雀の涙ほどの原稿料が手に入るようになると天にも昇るような気持ちを牧場は覚えた。
「だめだ!」
ぐちゃぐちゃと牧場は帳面に描いた人物の顔を鉛筆で乱雑に塗り潰す。
違う。ぼくが描きたかったものはこんなものじゃない。ぼくが描きたいのは──。
「春彦さん、お茶が入りましたよ」
部屋と廊下を区切る襖を開け、顔を出したのは牧場の母であった。牧場の父に先立たれ、構えていた屋敷も手放さざるを得なくなり、今は母子二人小さなアパートでひっそりと暮らしている。
仕事の合間を縫い、睡眠時間を削るようにして机に向かう自分の身をいつも案じ、気を遣ってくれる優しい母親を楽させてやりたいと思う気持ちも少なからず牧場にはあった。
「ありがとう。そこに置いておいて……」
「あと、星さんから手紙が」
ちらと母親を見遣ったものの、すぐに帳面に目線を戻した牧場だったが、飛雄馬からの手紙の一言にはっと顔を上げ、椅子から立ち上がった。
そうして、封筒を手にすると、編集部経由で届いたらしい宛先の一文字一文字を目で追ってから牧場は封筒を裏返す。母親の言葉通り、差出人は星飛雄馬とだけで、住所の類は書かれていない。
震える指で何とか牧場は封を切り、中から便箋を取り出し綴られた文章に目を通す。
あくまで一人のファンとして、今まで掲載された読み切り数本の感想が書き連ねてあり、最後にはこれからも応援しているとの添え書きがあった。
星飛雄馬なんて名前は日本全国どこを探しても彼しかいないだろう。
音もなく頬を滑った温かい雫がひとつ、便箋に落ちる。
春彦さん?と心配そうに名を呼ぶ母に牧場は何でもないと首を振った。
鼻の奥がツンと痛むのを大きく息を吸うことで耐え、牧場は再び椅子に座り帳面と向き合う。
編集からボツをもらってもいい。これが自分の漫画家としての最後の作品になってしまってもいい、それだけの覚悟と思いをこの読み切りにぶつけてみよう。
星飛雄馬をモデルにした投手が努力し、懸命に野球に打ち込み、ライバルに負けはしたが、明日に向かって再び立ち上がろうとする姿を牧場は帳面に書き記し、原稿用紙へと向かった。
それこそ神がかったように手が、指が、頭が、ペンが動いて、牧場は締切当日の朝に編集部へと完成原稿を持ち込んだ。
──その日の牧場の顔は晴々としており、今までに見た牧場春彦の表情のどれよりも美しくやりきった満ち足りた様子であった、と後に当時の編集者は今や売れっ子漫画家の座まで昇りつめた彼のことを評する。
星飛雄馬からファンレターをもらった牧場が、その差出人をモデルに描いた漫画が人気を呼び、読み切りから連載へと移り、現在では大きな仕事場を借りてアシスタントを雇うまでとなった。
牧場は原稿の合間につけた巨人軍の試合中継を観ながら、飛雄馬の名前を小さく呼ぶ。星飛雄馬がいたからこそ、今があって、自分は彼に二度助けられたことになる。
『出たー!大リーグボール二号!消える魔球の前に手も足も出ません!』
「今日も星は冴えてますねえ」
中継を観たアシスタントの一人がぼやく。
「ああ、ふふ……」
牧場は微笑み、テレビ画面に見入る。
「先生!早いとこペン入れ終わらせてくださいよ。座談会の打ち合わせとかなんとか言ってませんでしたあ?」
「あ、そうだった……」
ぼやいて、牧場は下描きまで済ませてある原稿に向かい合う。
本日、連載している週刊少年マガジンの特別企画で少年少女読者と現役野球選手との座談会の打ち合わせが入っていたことを思い出して牧場はやれやれと溜息を漏らす。 あのファンレターを貰ってから1年ほどになるだろうか。
返事を書こう書こうと思いつつ、日々に忙殺され今日にまで至ってしまった。
久しぶりに会ったら、いろんな話をしたいし、手紙のお礼も直接言いたいものだな、と牧場は机の上にずっと置いている写真立てを手にすると、その中に写る青年のはにかんだような笑顔につられるように自分もニッと笑ってみせた。