遠征先より愛を込めて
遠征先より愛を込めて いけない、寝てしまっていた──飛雄馬は来客チャイムの音でソファーから飛び起き、慌てて手首に巻いている腕時計で時間を確認する。約束の時間をとうに過ぎている。今日は午後から少年漫画雑誌の取材とグラビアの撮影があるというのに。
しまった、とんでもないことをしてしまった──全身から吹き出す冷や汗に背中がじっとりと湿ってくるのを感じつつも、飛雄馬はそういえば、電話がない、とソファーに腰掛けたまま黒電話の場所を振り返る。
電話の呼び出し音にも気付かぬほど熟睡していたのだろうか。明日監督から大目玉を食らうに違いない。
頭を抱え、今からの立ち回りを思案していた飛雄馬だが、再度、来客チャイムが鳴らされたために、今行きます、と立ち上がる。今日のインタビュアーとカメラマンらだろうか。素直に謝れば許してくれるだろうか。そんなことを考えながら、部屋の扉を開けた飛雄馬は、目の前に立っていた男の姿に愕然とし、瞬きもできないまま立ち竦んだ。
「指定の、時間を過ぎても姿を現さないから心配して訪ねてみたが、案外元気そうじゃないか」
「は、花形さん……」
飛雄馬が名を呼んだ男──花形満は本日、飛雄馬と共に雑誌の取材とグラビア撮影をすることになっていた。だが、彼がなぜ、おれの部屋に?飛雄馬がものも言えぬまま、花形の顔を見つめていると、彼はクスリと微笑み、お邪魔だったかい?と尋ねた。
「いや、そんなことは──」
「今日の件についてはまた日を改めて、ということになってね。星くんが体調不良で来られないと伝えたら、あちらからそう言われたよ」
「そ、そうでしたか。それはよかった──」
花形のフォローに安堵し、飛雄馬は胸を撫で下ろすと、ありがとうございます、と頭を下げた。
「なに、礼を言われるようなことはしていない。フフ、真面目なきみが遅刻するとはよほどのことがあるだろうと思ってね。何もないのなら安心したよ。またあちらから連絡があるだろうさ」
それでは、と言うなり、立ち去ろうとする花形を飛雄馬は呼び止め、よかったらコーヒーでも、と続ける。
「…………」
「いえ、その、迷惑じゃなかったら……今日の詫びと言ってはなんだが」
「それならまず出版社に連絡を入れたまえ。ずいぶん心配していたからね」
「あ、ああ……それもそうか……」
へらりと飛雄馬は間の抜けた笑みを口元に湛えてから、電話をしなければと花形に背を向ける。
しかして、そのまま立ち去るかと思われた花形だったが、飛雄馬が手を離した部屋の扉を開け、そこから室内に身を滑らせた。
「お邪魔させていただくよ」
「…………」
玄関先で靴を脱ぐ花形を目の端に留めつつ、飛雄馬は手帳に書き留めておいた出版社の担当の番号へと電話を掛け、今日の非礼を詫びた。担当者は気にするなと言い、早く良くなるようにと労いの言葉までかけてくれ、飛雄馬の胸はずきんと痛んだ。
いっそ本当のことを打ち明けてしまおうかとも考えたが、それでは花形の顔に泥を塗ってしまうことになる──と思い直し、ありがとうございます、と礼を言うに留めた。
そうして、電話を切り、花形にソファーに腰を下ろすよう勧めると、キッチンにてやかんで湯を沸かす。
明子さんは?の花形からの問いに、今日はアルバイトに出ている、と伝え、ああ、彼はおれの体調云々ではなく、ねえちゃんに会いに来たのだな、と思わず吹き出してしまう。
「彼の姿も今日はないようだね」
「彼?ああ、伴ですか。嫌だな、そんなに四六時中いつも一緒というわけではないですよ」
「へえ。ぼくは彼は暇さえあればここを訪ねていると思っていたよ」
「そう、皆に言われるが、彼も親父さんと色々あるようでね……」
やかんが湯が沸いたことを知らせるように鳴り、飛雄馬は火を止めると、あらかじめ用意していたインスタント・コーヒー入りのカップふたつにそれぞれ湯を注ぐ。香ばしい、コーヒー独特の芳香が立ち昇り、飛雄馬の気分を少し落ち着かせた。
「いい香りだ。きみの好みかい」
「いや、姉が買ってきてくれるのをおれは飲むだけで……」
「…………」
コーヒー入りのカップと、花形が数日前に姉宛に送ってきた遠征地の名産菓子を盆に乗せ、飛雄馬はリビングへと向かった。
「花形さんからいただいたもので悪いが……」
飛雄馬は言いつつ、テーブルの上、花形の前にカップと菓子を置くと、彼と対面になるような位置、絨毯敷の床へと腰を下ろす。
「お口に合ったかね」
「姉は美味しいと言っていましたよ。このお菓子はどちらのでしたっけ」
「ぼくはきみに訊いている」
カップに口を付けた飛雄馬だったが、花形に強い口調でそう言われ、弾かれたように顔を上げると対面にいる男の顔を見つめた。
怒らせるようなことを言っただろうか。やはり、彼からの品を出したのが不味かったか。
ねえちゃんに送ったものをお前が食べるなど言語道断、と、花形はそう言いたいのだろうか。
そりゃあ、送られてきた品を何度かひとつふたつ摘んだことはあるが、やはり他人に食べられるというのは嫌なものだろうか。
「…………」
「明子さん宛に送る花も、遠征先の名産の品々もぼくはきみの、星くんの顔を思い浮かべながら選んでいる」
「……ぷっ、花形さんもそんな冗談を言うんだな。おれの顔を思い浮かべながらなんて……ねえちゃん、姉はいつも花形さんからの手紙と贈り物を楽しみにしていますよ」
「冗談、ねえ……」
コーヒーを啜った花形が、何やら含蓄ありげに呟き、飛雄馬は東京タワーに視線を移した彼の横顔を見つめる。妙な、ことを言う人だな。そんな嘘をついてどうしようと言うのだろう。
今日だっておれのことを庇ってくれたようなものだし、おれがねえちゃんに話すことを狙っての印象付け──恋の戦略とでも言うのだろうか。花形は打撃においては天才的だが、恋愛のことについてはからっきしらしい。
飛雄馬は、花形の弱みを握ったような気がして、コーヒーを口に含みつつ顔を綻ばせる。
「遠征先で花やお菓子を選んで発送するのも大変だろう。姉もいつかお礼をと言っていた」
「…………」
ふと、花形と飛雄馬の視線が絡み、交わる。
何か言いたげに、真っ直ぐにこちらを見つめてくる瞳。花形の顔を、この距離でまじまじと見るのは初めてかもしれない。目を逸らさなければ。しかし、動けない。すると、花形が立ち上がり、飛雄馬との距離を詰めた。
「な、にを…………」
「ただいま。あら、どなたか来てるの?」
息を呑み、振り絞るようにして言葉を紡いだ飛雄馬の張り詰めた緊張の線を断ち切ったのは、帰宅した姉・明子の一声で、花形はふいと視線を逸らし、玄関先へと向かっていった。
「きゃあ!花形さん」
何やら、姉と花形が言葉を交わす声が、やたらと遠くに感じられるようで飛雄馬は今頃になって、自分がひどい冷や汗をかいていることに気付く。
あの場でおれは情けないことに完全に気圧されたのだ、試合の最中でもあるまいに。
まったく、今日はとんだ厄日だな、と飛雄馬がぬるくなったコーヒーを啜ると、姉と花形が部屋を出て行ったか、扉が閉まる音を聞く。
しんと静まり返った部屋にひとり残された飛雄馬は、茶請けにと花形へ出した洋菓子を頬張り、ろくに咀嚼もせぬまま、コーヒーで胃へと流し込んだ。