エレベーター
エレベーター それじゃあ、また明日、と飛雄馬はクラウンマンションの入り口でここまで見送りに着いてきてくれた伴と別れた。
まったく、伴の食べっぷりを見ているとそれだけで腹いっぱいになるな。
飛雄馬は、先程ラーメン屋にて夕食を共にした親友とのやり取りを思い出し、ふふっと苦笑すると、自室のある階に上がるためにエレベーターを利用するべく、その扉の前に立った。
すると、エレベーターの箱が動く独特のモーター音が広いエントランスに響いて、飛雄馬はちょうどよかったな、と目の前の扉を一瞥してから降りる人に道を開けようとその場から少し、左に避ける。
他に乗り合わせる人もいないのか、エレベーターは真っ直ぐ下降し、チン!と間の抜けた音を立て、一階に到着したことを飛雄馬に知らせてくれた。
「どうも」
扉が開くと飛雄馬は相手の顔も見ずに会釈し、申し訳程度の挨拶を口にしながら開いた扉から中に乗り込もうとしたが、待ちたまえ、とどこかで聞いたことのある口調と声色に呼び止められ、ハッ、とその場に固まった。
「…………」
「まさか、きみに会うとはね」
言うなり、ニッ、と口角を上げる特有の笑顔を見せた花形の顔を、飛雄馬は無言のまま見つめる。
エレベーターの箱は無慈悲にも飛雄馬の背後で固く口を閉ざすと、上で呼ぶ人がいたかそのまま上昇して行った。
「ねえちゃんに、会いに?」
知らん振りをして、行ってくれたらよかったのに、の言葉を飛雄馬は喉奥に押しやってから目の前の彼に対し、そんな質問を投げかける。
「スタンドにガソリンを入れに寄ったらちょうど帰る時間との話でね」
「そうですか。それは、どうも」
「せっかくだから家に上がってコーヒーでもとおっしゃるのでお言葉に甘えてしまったよ。フフ、いい眺めじゃないか。きみの趣味かね」
花形さんが言うのは、ベランダから見える東京タワーのことだろう、と飛雄馬は踏み、そうでしょう、あれはねえちゃんの趣味です、と当たり障りのない返事をした。
彼には早いところ引き上げてほしいのが正直なところで、飛雄馬も一刻も早く部屋へ戻って明日の試合に備え、体を休めたかった。
まったく、今一番会いたくない人間に鉢合わせてしまったな、と飛雄馬は明日、後楽園球場で嫌でも顔を突き合わせる羽目になる男の顔を見据える。
「明子さんの。へえ」
「早く、帰ったらどうです。こんなところで油を売っていないで」
「おやおや、ずいぶんと殺気立ってるじゃないか。まだ明日の試合までだいぶ時間があるだろうに」
「は、花形さんこそ、何を考えてるか知らんがずいぶん余裕じゃないか」
花形の煽るような口調に飛雄馬はカッとなり、声を荒げた。この男といるとどうにも調子が狂う。
いつまでも馴れ合っていてはそれこそ本当に明日の試合に影響しそうだ。
飛雄馬は、それでは、と言うなりその場を切り上げようと踵を返す。
「明子さんからきみの、幼い頃の話をたくさん聞かせてもらったよ。ふふふ」
「…………!」
「明子さんによろしく。では」
おれの、幼い頃の話、だって──?
飛雄馬の立ち止まった背中に、じっとりと汗が滲む。
ねえちゃんのやつ、なぜ、よりによって花形さんになんて。言っていいことと悪いことがあるだろう。
「花形さ……」
一体、何を聞いたんだねえちゃんの口から、そう尋ねようと振り返った飛雄馬だったが、既に花形の姿はそこにはなく、広いエントランスが眼前には広がるばかりで、それと入れ違いのようにして一階に到着したエレベーターの扉が開き、中からひとりは幼子の手を引き、ひとりは赤ん坊を抱いた若夫婦が顔を出した。
「あっ、ほしひゅうまだ!」
飛雄馬の顔を見るなり、まだ幼稚園に入るか入らないかの年齢であろう女児が声を上ずらせた。
「こら!」
女児と手を繋ぐ眼鏡をかけた父親らしき男性が彼女を叱責する。
「ふふ、嬉しいな。にいちゃんのことがわかるのかい」
突然現れた家族連れのおかげで飛雄馬は些か平静を取り戻し、ニコッとその顔に笑みを浮かべる。
「うん!パパがいっつもやきゅうみながら言ってるもの!おなじマンションにすんでるんだぞって!」
申し訳なさそうに頭を下げる父親に会釈し、飛雄馬はバイバイ、と女児に手を振る。
よかった、あの子のおかげで落ち着くことができた。
このまま部屋に帰れば、ねえちゃんを詰っていたかもしれない……。
そんなこと、しちゃいけない。
飛雄馬はエレベーターに乗り込むと、自分の部屋のある階の番号が書かれたボタンを押し、何をするでもなく目を閉じる。
そう時間を要さず、エレベーターは目的の階に飛雄馬を運んだ。
開いた扉から飛雄馬は共有廊下へと出て、一直線に自分の部屋を目指す。
いつもの、見慣れた自室の扉の前で深呼吸をしてから飛雄馬はスラックスのポケットから取り出した鍵をドアノブに差し込んだ。
「…………」
カチャリ、とそのまま錠を開けるとすぐ飛雄馬は扉を開け、ただいま、ねえちゃん、と中にいるであろう明子に帰宅を告げた。
「おかえりなさい、飛雄馬」
明日の支度でもしていたのか台所に立つ明子が飛雄馬の姿を目の当たりにするなり微笑む。
「アルバイトお疲れ様。先に休んでいてもよかったのに」
「明日の朝食の準備をしてからにしようと思ったの」
「働き者だな、ねえちゃんは……いいお嫁さんになれるぜ」
「ま、まあ!」
かあっ!と明子の顔が赤く火照る様を見つめ、飛雄馬は一瞬、表情を曇らせたが、まずはもらってくれる相手探しが先だろうね、と彼女をからかった。
「相手なんて……そんな」
「……ふふ」
飛雄馬は花形の褒めてくれた東京タワーが一望できるリビングの窓辺に向かうと、近くにあるソファーに腰掛けた。
「明日、花形さんの……あ、阪神との試合でしょう」
「ん……ああ、そうだね」
「頑張ってね。飛雄馬なら大丈夫よ」
飛雄馬はこちらが見つめていることなどまったく気付きもせず、米を研ぐ明子の姿を瞳に映す。
いずれねえちゃんは、花形さんと一緒になるんだろうか。そのとき、おれはどんな顔をしたらいいんだろう。おれととうちゃんのために心を痛めてきたねえちゃんが、どうか幸せになってくれたら……。
そう、願う一方で、おれは花形さんに負けたくはない。あんなことを言われはしたが、気にするようでは背番号16は背負えない。
考えることは多々あるにせよ、まずは明日の試合を勝利で終えねば。
飛雄馬はお風呂沸いたわよ、の声を遠くに聞きつつ、ねえちゃんが先に入っていいよと返した自分の声が果たして現実のものか、この一連のやり取りすべて夢の中の出来事なのかわからぬまま、ソファーの座面の上で帰宅した安心感からか、うとうととそのまま微睡んだ。