駅舎
駅舎 あれ、と飛雄馬は親友・伴と別れ、駅舎の外に出てすぐに見知った顔が視線の端に映ったことで、足を止めた。朝から続く雨は未だ止まず、歩く人々も各々傘を手にしている。
見知った顔──彼は見たところ傘を所持している様子はなく、飛雄馬は雨宿りをしているのだろうと察し、一緒に入りませんかと声を掛けてみるべく、傘を片手に歩みを再開させた。
断るか共に傘に入るかは彼が決めることで、現に目の前に困った人間がいるのであれば見捨ててはおけない、とそう思ってのこと。
「……さん、花形さん」
「…………」
発した声も一度は雑踏に描き消されたが、二度目はしっかりと名を呼んだ彼に届いたようで、花形と呼ばれた青年が飛雄馬に顔を向けた。
「今、帰るところですか」
当たり障りなく、飛雄馬は尋ね、傘がないのなら一緒に帰りませんかとも続ける。
「なぜここに、とは訊かないのかね」
くすりと花形──と呼ばれた彼が微笑み、そう、言葉を続けたために、飛雄馬はあえて訊かなかったのに、の一言を飲み込み、花形さんにも事情があるでしょうから、と淡々と切り返した。
「……きみを待っていたと言ったら?」
「え?」
「フフ、冗談。ご一緒したいところだが、ぼくと星くんでは帰る方向が違うだろう。雨が止むまで待つことにするよ」
「しばらく、止まないと思うが……ここで夜を明かすつもりですか。駅前に停まっているタクシー乗り場までならどうです」
「お人好しだね、きみは。ぼくなら見て見ぬふりを決め込むさ。体調でも崩して試合に穴を開ければいい、とね」
「…………」
飛雄馬は冷たく言い放つ花形の顔をじっと見つめ、まさか、花形さんともあろう人がそんなことをするわけがない。おれとあなたの立場が逆だったとしても、あなたはおれに対し、同じことをするだろう、と、低い声で彼を否定する。
すると、花形は吹き出し、さすが星くん、と飛雄馬を煽る。
「どういう意味です」
強い口調で飛雄馬が訊く。
「いや、なに。きみらしいと言ったのさ。実に甘ちゃんらしいきみらしい」
「おれはそんな卑怯な真似をしてまで阪神に、あなたに勝とうとは思わない。行きましょう。冷えてきた」
「…………」
ふいと花形から視線を逸らし、飛雄馬は傘を開くと、どうぞと声を掛けた。
花形は無言のまま飛雄馬の開いた傘の中に入り、ふたりは歩調を合わせ、歩み始める。
傘の生地を大粒の雨が叩き、飛雄馬が手にする手元にもその衝撃はありありと伝わってくる。
「明日の試合は中止でしょうか」
「明日は上がると言っていたが」
「…………」
タクシー乗り場まではあと数十メートル。
雨とはいえ、駅前には客待ちのタクシーが数台、待機している。目の前が霞むような大雨ではあるが、駅前から走ればここまではそう時間は掛からないだろうに。いくら体を冷やすことが良くないこととは言え、あの場でずっと立っていることの方が体に毒だろうに。花形さんはなぜ、駅舎の外に立っていたのだろう。いつから、なんのために。
さっきの言葉の意味をついつい考え込んでしまう。
おれを待っていたと彼は言ったが、冗談ではなく、本当
飛雄馬は、ハッ、と花形がタクシーの後部座席のドアを開けた運転手と話す声で我に返る。
いいや、考えないことにしよう。
きっと花形さんのことだ。おれを撹乱させるためにあんなことを言ったのだろう。何かの用事で東京にまで出向いたが、ふいに雨に降られてしまっただけのことだろう。
「では、星くん。世話になったね。この礼は今度の巨人戦で返させていただくよ」
「ふふ。楽しみにしていますよ。帰ったら体を温めてくださいね」
「………………」
そう、笑み混じりに返した飛雄馬の目の前でドアが閉まり、花形の乗ったタクシーは国道を走る車の列の中に紛れた。
今ので、どっと疲れたような気がする。
飛雄馬は苦笑すると、己もまた、自宅マンションに戻るべく歩み始める。
雨のせいか、腕時計が示す時刻にしては辺りは暗く、空気は冷えている。人の心配もいいが、自分も風邪をひかないようにしなければと飛雄馬は歩調を速め、行き交う人々とすれ違う。
それからしばらく歩いたのちに、自宅のあるクラウンマンションの前で傘を閉じると、入口のドアから中に入り、エントランスにあるエレベーターの前に立つ。
花形さん、体調を崩さないといいが。
東京から神奈川まではタクシーでどれくらい掛かるものだろうか。
考えつつ、一階に到着したエレベーターの箱に乗り込み、部屋のある階のボタンを押す。
エレベーターは飛雄馬を乗せ、ゆるやかに上昇すると、目的の階で口を開ける。
そこから吐き出された飛雄馬はスラックスのポケットから自宅の鍵を手に、廊下を歩いてから部屋の錠を開ける。中は暗く、姉が外出していることを知らせ、飛雄馬は玄関先で靴を脱ぐと、部屋の明かりを付けた。
ねえちゃん、今日はバイトだと言っていたっけ。
こんなことなら伴を家に連れてくるんだったな。
ひとりで居るには広すぎるマンションのリビングで、飛雄馬はコーヒーでも飲もうかと思い立つ。
そうして淹れたコーヒーで喉を潤してから、シャワーを浴び、汗を流し、体を温めてから再び、リビングに戻ったところに、家の黒電話が鳴り響いた。
「…………」
居留守を決め込もうかと一瞬、躊躇したものの、飛雄馬は受話器を取り、はい、星ですがと名乗った。
「星くんかい。先程はどうも……無事帰宅したことを伝えようと思ってね。用件はそれだけさ」
「花形さん……それは、よかった。おれも安心しましたよ」
「…………」
「…………」
続ける言葉が見つからず、受話器を持つ飛雄馬の手に力が篭もる。と、では、またと素っ気なく電話は切られ、飛雄馬の耳元には無機質な不通音が響いた。
律儀な人だな、と飛雄馬は苦笑し、受話器を置くと、そのままなんの気なしに少し歩いた先にあるテレビのスイッチを入れる。
と、ちょうど、先日の阪神の試合の様子が画面には映し出され、花形がホームランを打つ光景が流れている。打球は綺麗に伸び、放物線を描いて観客席へと落ち、その球を手にしようと落下地点に阪神ファンらが群がる様まで放映され、飛雄馬は画面から目が離せずにいた。
今日の礼は、今度の試合で返すと彼は言っていたが、それはこちらの台詞だ。絶対に打ち取ってみせる。
飛雄馬は試合後のインタビューに答える花形の声を聞きながら、ぎゅっと左手を強く握り込んだ。
雨は、今も激しく降り続いている。