出迎え
出迎え もう、帰ってくる頃だろうか、と飛雄馬は手首に巻いた腕時計に視線を落とす。
飛雄馬はいわゆるシーズン・オフと言われるこの季節──冬の寒い日にも関わらず、色味の濃いサングラスを着用し、空港の到着ロビーで飛行機から降りてくるであろうひとりの人物を待っていた。
昨晩、もう眠ろうかとしていたところに、明夜の便で帰京するから、迎えに来てほしいと酔った声で寮に電話があったことが記憶に新しい。こちらの言い分などひとつも聞こうとはせず、用件を告げるなり一方的に切れた電話。
やれやれ、と飛雄馬は受話器を元の位置に戻し、大きな溜息を吐いたものの、親友に久しぶりに会えることに胸が踊る自分がいることも確かだった。
「おうい!星ぃ!!」
もうそろそろか、と再び、腕時計、その時計盤を見下ろした飛雄馬だったが、突然、大きな声で呼ばれた己の名に、ギクッ!と体を震わせる。
それを受け、慌てて顔を上げた飛雄馬だったが、周辺の見送り客や降機客らの視線を集めようとも、それを一切合切気にすることなく、星ぃ〜!と大声を発しながら駆け寄ってくる人物の満面の笑みから思わず顔を逸らし──彼に背を向けると、足早に歩き出した。
「なっ!?にゃんで無視するんじゃあ!?星、わしだぞい!伴だぞ!伴宙太じゃい!」
星?星って巨人の星か?なんで空港に?あれ、昔中日にいた伴じゃないか?などと言う声が、親友の──伴の星ぃ!と呼ぶ声に混ざり、飛雄馬の耳に入る。
ああ、だから嫌だったのに伴のやつ。
こんなところで人の名前を呼ぶんじゃない。
「星!聞こえんのか!」
「…………」
飛雄馬は観念し、少し歩いたところでピタリと歩みを止めると、背後を振り返り、静かにしろ、と立てた人差し指を自身の唇に当てる。
「あ……!!」
そこでようやく状況が飲み込めたか、伴もまた、口を両手で塞ぐと、辺りを二、三度見回してから、集まる視線に照れたように笑いながら、お騒がせしてどうもすんません、とこれまた大きな声を上げ、前後左右に向け頭を下げた。
飛雄馬はそこでまたしてもやれやれ、と溜息を吐いてから、先に空港を出ると、出入口付近で停車していたタクシーに乗り込み、伴が座れるよう、後部座席の奥へと詰める。
「荷物があるんでトランクをお借りしてもええかのう」
「あ、お客さん、自分がしますよ」
開いたままの後部座席側のドアから、ようやく追いついた伴が運転手へと声を掛ける。
運転手は自分がやる、と運転席から降りようとしたが、伴はそれを制し、自分でトランクを開けるとそこに荷物とコートを押し込んだ。
「よっしゃ!これでええわい」
にんまり、伴は微笑みを浮かべ、トランクを閉めると、飛雄馬の待つ後部座席へ乗り込む。
「待たせてすまんのう」
「いや、いい。それより空港で大きな声を出したことについて一言ほしい」
飛雄馬は、贔屓にしている馴染みの料亭の名を運転手に伝えると、掛けていたサングラスを外し、上着の下、シャツの胸ポケットにそれを仕舞い込む。
「あ、う……す、すまん。星に久しぶりに会えたのが嬉しくてつい……」
「だからって大声を出すのはどうかと思うが」
「め、面目ない…そ、そう怒らんでくれい。出張から帰ってきたばかりで怒られるなんてあんまりじゃい」
「ふふ、なに、怒ってなどいないさ。出張で疲れただろう。今日の夕飯はおれが奢ろうじゃないか。商談もうまく纏まったんだろう」
「ほ、星…………」
走り出すタクシーの中、伴の大きな目からはぼろぼろっ、と大粒の涙が頬を伝い零れ落ちた。
「…………」
相変わらず、涙脆いやつ……と飛雄馬はつられて泣きそうになりながらも、窓の外に視線を遣ることでそれを悟られまいとする。
それから空港を出てしばらく、伴の出張にかこつけた地方観光の土産話を聞きながらタクシーに揺られていたふたりだが、例の料亭が見えてきたところで揃ってタクシーを降りた。
料亭の中に足を一歩踏み入れると、顔見知りになってしまっている仲居が声を掛けてきて、離れの一室を案内してくれる。
伴に誘われ、何度か利用している店だが、店内の雰囲気も会社重役らの商談の接待等に使われることが多いようで、比較的、他の大衆店よりも落ち着いているように飛雄馬は思う。
開けた襖の向こう、上座に伴を座らせ、飛雄馬は出入口に近い席に腰を下ろすと、仲居の女性が鍋の準備をしてくれるのを間近に見ながら、伴に酒、ビールを頼むと頭を下げた。
既に座卓の上にある程度の用意はしてあったものの、カセットコンロに火を付け、鍋で牛脂を溶かし、肉を焼いたり、と細々とした準備を行い、具材をそれぞれ鍋に投入してから、割り下を流し込んだところで注文を受けたビールを取りに、仲居は部屋を出て行く。
「親父さんも鼻が高いんじゃないか。商談が纏まったとなると、伴重工業が全国区になる日も近いな」
「なに、わしの力じゃないわい。わしはちょっと話をしに行っただけで……従業員らが頑張ってくれとるおかげよ」
仲居が襖を開け、持ち寄ったビール瓶を受け取り、飛雄馬は栓抜きで栓を開けると、伴が手にしたグラスへとそれを注いでやった。
「ふふ、伴らしくない台詞だな」
「ん、ん?そ、そうかのう。わしは伴自動車工場が大きくなったのは、働いてくれとる従業員たちのおかげといつも思っとるぞい。わしの常務なんて名ばかりで何の役にも立ちはせんからの」
「………………」
誰がこの男をかつて、自分を応援団長と宣い、横暴三昧、父親の権力を傘に青雲高校を牛耳っていたと思うだろう。今の彼からは想像もつかない。
伴が仕事をサボったり、寝坊をして皆に迷惑を掛けても何だかんだと常務の職に就いていられるのは、親の七光りと言ってしまえばそうだが、彼の人となりが大きいのかもしれんな、と飛雄馬は酔ったか、顔を真っ赤にしながら肉を突つく伴の顔を見つめる。
「うむ、うまいのう。ここのすき焼きは天下一品じゃい。星も食え食え」
「ああ」
思わず破顔し、飛雄馬も甘く煮えた肉を口に運ぶ。
「おおい、肉を五人前追加で頼む」
大声で伴は廊下の向こうにいるであろう仲居に声を掛け、程よく煮えた葱を頬張った。
「これから親父さんのところに行くのか?」
「いや、親父には全部電話で話しとる。それに夜も遅いしのう」
「そうか。それならよかった」
「なに、どんな予定が入っていようとわしは星を優先するぞい」
「おまちどうさま」
飛雄馬が返事をしたところで襖が開き、五人前の肉を手にした仲居が顔を出す。
伴は彼女にビールの追加を頼み、飛雄馬は受け取った容器の中から肉を一枚、一枚鍋に投入していく。部屋の中には肉や野菜の煮立つ甘い匂いが充満している。
「星、その、門限は、いいのか?」
「…………」
沈黙の中、くつくつと鍋の中が沸騰し、音を立てている。
「ビール、お持ちしました」
仲居に礼を言い、頭を下げてから飛雄馬は持ち寄られた冷えたビール瓶を手にした。
「ええ、星。わしが開ける。貸せい」
「肉がもう煮えたんじゃないか」
「星が食えばいいじゃろ。さっきからほとんど食っとらんじゃないか」
「…………」
飛雄馬は瓶の栓を開けると、とっくの昔に殻になってしまっている伴の手元にあるグラスへと注ぎ入れた。
黄金色の液体がグラスを満たし、その表面が泡立つ。
「星は飲まんのか」
「おれは飲まない」
「わしのために開いた席と言うのなら、ぜひとも飲んでほしいがのう」
「それとこれとは話が別だ、伴。お誘いはありがたいがおれはもう酒は口にしないと決めている」
「まったく、お堅いやつじゃのう」
煮えた肉を二、三枚ほどとんすいの中、溶き卵にくぐらせると伴はそれを一気に頬張る。
「……さっきの、話だが、今日は外泊許可をもらっている」
「…………」
はっ、と鍋から立ち昇る湯気の向こうで伴が真っ赤な顔を上げた。飛雄馬はそれを見ないふりをして──鍋から肉と野菜をとんすいの中に移すと、それを口へと運ぶ。
「星、それは、つまり……」
「…………」
甘く味のついた薄切り肉を咀嚼し、飛雄馬はとんすいの上に箸を置く。すると、伴がコンロの火を消し、こちらににじり寄って来るのが視界の端に映った。
「わしの、いいように解釈してしまってもいいのか」
「まだ鍋の中に残っているぞ」
「…………星」
甘ったるい、伴の声が耳に心地いい。
目と鼻の先に、伴の顔があって、飛雄馬は僅かに顔を上向けると、目を閉じる。
火が消えたことで、鍋の沸騰がようやく治まり、部屋の中には静寂が訪れる。
少し、遠慮気味に触れてきた唇の熱さに飛雄馬は身震いし、彼を受け入れるために口を開く。
久しぶりに嗅いだ伴の匂いに、体の奥一瞬にして火照ったのを自覚しながら、飛雄馬は口の中に滑り込んできた舌に、自分のそれを絡めた。
肌が粟立ち、飛雄馬の下腹部はぴくりと戦慄く。
勢いに任せに組み敷かれて、畳に背中を預けるようにして飛雄馬は伴の太い首に腕を回した。
おそるおそる、太腿を撫でる伴の妙な気遣いに飛雄馬は吹き出して、思わずクスクスと笑みを溢す。
「な、何か変なこと、したかの」
「いや……今更何をこわごわ触っているのかと思ってな」
「……星に何かあったら責任取れんぞい」
「ふふ、それは左腕時代に聞きたかったな」
「う、うむ、む……」
申し訳なさそうに口ごもる伴に飛雄馬はそっと口付け、その唇を啄む。
スラックス越しに腿を撫でる伴の手が暖かくて、徐々にその奥、下着の中で首をもたげ始めている存在に、飛雄馬は苦笑し、唇を寄せてきた彼に対し、口を開いて応えた。
「は、ぅ、っ……」
そうして、己の下腹部から聞こえてくる金属音──伴がスラックスのベルトを緩める音を耳にしながら、飛雄馬は幾度となく重ねられる濡れた唇の柔らかさに身震いし、腹を撫でつつ下着の中に忍び込んできた指にびくん!と大きく体を震わせる。
一瞬、伴は躊躇ったか、手の動きが止まったが、すぐにその指は下着を持ち上げていた飛雄馬の男根をさすり、その大きく広い掌に包み込んだ。
「あ……!」
伴の首から腕を離し、飛雄馬は体を畳に預けると、首筋に寄せられた唇の熱さに声を上げた。
「腰を上げろ、星。脱いでしまえ」
「…………」
言われるがままに腰を上げ、飛雄馬は伴に下着とスラックスを両足から抜いてもらうと、再び、彼の体を己の足の間に迎え入れる。
「相変わらず細いのう。ちゃんと食うとるか心配になってくるわい」
「伴に比べたら、っ……誰だって細いさ……」
「うんにゃ、星は細すぎるぞい。もっと食わんとだめじゃい」
伴が一度、体を起こすと何やら着ているジャケットのポケットから容器を取り出すのを飛雄馬は見上げつつ、素肌の触れている畳が、己の体温で温まっていくのを感じる。
「…………」
「久しぶりで痛いかもしれんからのう。ちゃんと解さんとな」
言うと伴は手にした容器の蓋を開け、指で掬った中身を飛雄馬の尻の中心に撫で付けた。
久しぶりの感触に、飛雄馬は眉をひそめながらも、大丈夫か?の問いに、首を縦に振る。
すると、尻の窄まりをゆっくりと撫でていた伴の指が、そこから腹の中へと侵入してきて、飛雄馬は思わずその指を締め付けた。
「ん……、」
「きつかったか?」
「いや、大丈夫……」
飛雄馬が言うと、伴は入口を慣らすべく浅い位置を指で探り、そっと指の本数を増やす。
微かに伴の指先が掠める場所から、ぴりぴりと淡い痺れのようなものが背筋を駆けのぼって、飛雄馬は立てた膝を頼りなさげに揺らした。
「まだきついのう」
「ふ……ぅ、っ、っ、伴、いい、はやく……」
「じ、じゃが、それじゃと星が辛いじゃろう」
「そんなに、おれがやわじゃないのは、伴だって、知っているっ……はず」
「相変わらず、無茶ばかりしおって」
「無茶は……っ、ふふ。おたがいさまじゃないか」
飛雄馬は伴のはちきれんばかりにスラックスの前を膨らませている存在に視線を遣り、一緒になりたいのはおれも同じことさ、と続ける。
「……あ、ずっと、我慢しとったから、わし……」
「相変わらずなのは、どっちだか」
くすくすと飛雄馬が笑みを溢すと、伴は顔を真っ赤に染めたまま無言でベルトを緩め、スラックスのファスナーを下ろした。
明るい場所で目の当たりにすると、一層恐ろしく──感じる伴の分身──に貫かれる様を想像して、飛雄馬は臍下をぴくりと反応させ、喉を鳴らす。
別に、こんなことをしたくて、するつもりで伴と友人関係を続けているわけじゃない。
けれど、おれは彼のぬくもりが好きなのだ。
幾度となくおれを抱く、肌の熱さに、腕の強さに救われてきたのだ。
飛雄馬は、体の中を突き進んでくる伴の熱に白い喉を晒し、背中を反らす。
すると、その喉に伴が唇を押し当ててきて、飛雄馬はより深く腹の内側を犯す存在に声を上げた。
伴の腕が、飛雄馬の反らした背中の下を通って、その体を強く抱き締める。
腹の中を限界まで満たす伴の存在に、飛雄馬は彼の腕に縋って、唇を噛み締めた。
両足を伴の腰に回す形で飛雄馬は彼を受け入れ、縋った腕に爪を立てる。
「う……いかん、星、出そうじゃい」
「そっちの、方が……助か、っ、う!」
びく、と腹の中で男根が跳ね、それから続けざまに伴が脈動する感覚があって、飛雄馬は脱力し、大きな息を吐いた。
「す、すまん……保たんかったわい」
「いや、構わない……命拾いした」
飛雄馬はふふ、と小さく微笑むと、唇を啄んできた伴に自分もまた口付けを返す。
それから、腹の中から抜け出ていった伴と共に身支度を整え、鍋に再び火を入れると、残った鍋の中身を突つ付き合い、勘定を済ませてから店の外へと出た。
畳の上で無理に体を任せたせいか、腰が痛むような気がして、飛雄馬は腰をさすり、それを受け、伴があわあわと目を白黒させる。
「す、すまん、星ぃ、わしのせいで」
「……腹は膨れたか」
「膨れた、膨れたわい。星、この通りじゃあ」
頭を垂れ、再び上げることを何度も繰り返す伴を尻目に、飛雄馬は料亭の出入口付近に停車していたタクシーに声を掛け、先に後部座席へと乗り込んだ。
伴も同じく、また慌ててトランクに出張帰りの荷物を積み込むと飛雄馬の隣に体を滑り込ませる。
「お客さん、どちらへ」
尋ねてきた運転手に伴の屋敷の住所を告げ、隣で驚いたか大きく目を見開いた彼の顔を瞳に映さぬよう、飛雄馬は視線を逸らすと、お願いします、と頭を下げた。料亭のある、奥まった街並みを抜け、タクシーは国道に出ると、伴の屋敷への道をひた走る。
先程のことがあるゆえか、伴の口数は少ない。
代わりに、しきりと運転手が話しかけてきたために、飛雄馬はそれに応えることで気を紛らわした。
道路もそう、混んではおらず、思っていたより早くタクシーは伴宅へと到着し、飛雄馬は提示された額より少し多めの金額を運転手に払うと、先に車を降りた。
それに続くように伴もまた、タクシーを降りるとトランクから荷物を取り出し、屋敷入口の門を開ける。
ふたりの背後をタクシーが駆け抜けていくと同時に、重たい邸宅入口の門が開き、飛雄馬はそこから屋敷へと繋がる広大な日本庭園風の庭を突っ切るように歩く、伴の姿を追った。
「おばさんはこの時間、家に帰っとる。屋敷にはわしと星のふたりじゃい」
「…………」
鹿威しの奏でる心地いい音を聞きつつ、飛雄馬は、黙っている。伴はそれで察したか何も言わないまま、庭を抜け、屋敷の鍵を開けると、飛雄馬を中へと招き入れた。ひんやりとした、独特の雰囲気が肌を刺す。
飛雄馬がこの屋敷を訪ねるのも初めてのことではなく──よく伴がおばさんと呼ぶお手伝いさんに食事をご馳走になったものだった。
「まず風呂に入るとええ」
「…………」
「沸かしてくるからのう。星はここにおれ」
伴に促されるまま、飛雄馬は彼の部屋へと足を踏み入れ、着替えだと使い古したトレーナーとジャージのズボンを投げ寄越される。
「伴が先に入るといい。帰ってきて疲れているだろう」
「いや、わしは後でええわい」
「よくない」
「星が入らんとわしゃ入らん!」
「…………」
「…………」
しばし、睨み合いを続けていたふたりだが、根負けしたらしき伴が着替えを手にすると、強情っぱりめ、の言葉を残し、部屋を出て行った。
そっくりそのまま、その言葉、きみに返そうじゃないか──の一言を飛雄馬は飲み込んで、布団でも敷いていてやるか、と部屋の中をぐるりと見渡す。
おばさんのおかげか、部屋の中は綺麗に片付いており、どちらかと言うと殺風景でもある。
寮で暮らしていた際などは服は脱ぎ散らしたまま、本は出しっぱなしで片付けに苦労したと言うのに。
布団が仕舞われているであろう押入れの襖を開け、飛雄馬はきちんと畳まれ、棚の上部に乗せられていた布団一式を取り出すと、畳の上にそれらを広げた。
そうして、部屋の中、飛雄馬は布団のそばで正座をし、伴が戻るのを待つ。
目を閉じ、耳を澄ませていると、ここまで庭の鹿威しの音色が聞こえてくる。
高校時代から幾度となく訪れた経験があるからだろうか、こうしていると妙に落ち着く。
何でもこの屋敷には茶室もあるなんて話を以前、耳にしたことがある。
伴の母親は何でも、名家のお嬢様だったとかで、生花やお茶、等々を嗜んでいらしたと言うのがおばさんの談だったか。
いつだったか、写真などは伴の父親がすべて処分してしまったとかで何ひとつ残ってはおらず、伴ももうほとんど覚えていないと話してくれた。
おれはまだ、かあちゃんの、母の記憶と、写真が残っているだけまだ、恵まれているのかもしれない。
飛雄馬が目を開け、ふと、部屋の出入口の襖に視線を遣ると、ちょうどそこが開き、浴衣に身を包んだ伴が濡れた髪を拭きつつ顔を出した。
「おう、湯が冷めんうちに入れ」
「そうさせてもらおう」
「ん、布団、敷いちょってくれたのかあ」
「……ただ待っているよりは、な」
言うと、飛雄馬は渡された着替えを手に立ち上がる。
すれ違いざま、湯上がりの伴から立ち昇る仄かな石鹸のよい匂いが鼻をくすぐり、飛雄馬は思わず顔を綻ばせた。
それには伴も気付かなかったか、何も言っては来ず、飛雄馬はそろりと部屋を抜け出すと、板張りの廊下を踏みしめ、その足で浴室へと向かう。
真冬などは、湯冷めしてしまうのではないかと思うほどに奥まった位置にある、伴邸の洗面脱衣所にようやく辿り着いた飛雄馬は、その場で服を脱ぐと、先にある浴室の戸を開ける。
浴槽いっぱいに貯められている湯を洗面器で掬い、それで一度、体を流してから飛雄馬はその中に浸かった。寮の風呂とはやはり違う、ひとりの空間というのは落ち着く。寮の風呂も、先輩方がそれぞれ談笑し、賑やかで楽しくはあるが、たまにはこうして、ゆったりとするのも悪くはないな、と飛雄馬は肌に優しく絡む湯に身を委ね、目を閉じる。
ともすれば、このまま眠ってしまいそうでもあり、飛雄馬は体を少し、浴槽の中で温めてから、髪と体を洗い、伴を待たせてはいけないとばかりに浴室を後にした。
脱衣所の棚に整頓され、綺麗に並べられているタオルのひとつを手に取り、それに水気を吸わせてから飛雄馬は、伴に渡されたトレーナーとジャージを身に纏った。下着は確か渡されなかったな、後で伴に在り処を訪ねることとしよう、と体を拭いたタオルで髪を撫で付けてから飛雄馬は再び長い廊下を引き返す。
すると、廊下の明かりは煌々と未だ辺りを照らしていたが、何やら伴の部屋の明かりが消えているようであり、飛雄馬はもしかして眠ってしまったのだろうか、とそっと物音を立てぬようにして襖を開ける。
しかして伴は暗い部屋の中で、先程飛雄馬が敷いた布団の上に座っており、飛雄馬はその姿に驚き、一瞬、身を強張らせたが、なんだ、起きてたのか、と小さく声を発した。
「意外と早かったのう。廊下は寒いじゃろう。はようこっちに来い」
「…………」
畳敷きの部屋に足を踏み入れ、飛雄馬は後ろ手で襖を閉めると、伴の許へと向かう。
そうして、こちらを見上げてくる瞳を見つめ返し、飛雄馬はその場に膝を着くと、伴に抱き締められ、彼の体の下に組み敷かれる形で布団の上に体を預けた。
「今日は、変に素直じゃ星じゃのう」
「ふふ、抵抗される方が好きか?」
「そ、そんなことは言っとらん!」
ふふっ、と再び微笑んだ唇に口付けられ、飛雄馬は目を閉じると共に、洗いざらしの濡れた髪を布団の上に晒す。少し、冷えた肌に伴の熱い指が触れて、びく、と大きく体が跳ねた。トレーナーの裾から、じかに肌に触れる指の辿々しさに飛雄馬の肌が粟立つ。
う、と声を上げ、晒した喉に伴が口付けて、その薄い皮膚をゆるく吸い上げた。
星、と呼ぶ声が、腹の奥を疼かせる。
腹の上を滑って、胸を掠めた指先に飛雄馬は唇を引き結んで、暗い部屋の中で目を開けた。
尖り、芯を持った胸の突起を抓み上げられて、再び飛雄馬の下腹部が熱を持った。
ジャージのズボンの前が張り、飛雄馬は顔を逸らすと、口元に手を遣る。
「何に遠慮しとる。誰もおらんと言うたじゃろう」
「しかし…………っく、」
突起の芯を押しつぶすように捏ねていた伴の指がトレーナーの中から抜け出たかと思うと、飛雄馬の両手、その手首を捻り上げ、彼の頭の上へと縫い留めた。
そればかりか、空いたもう一方の手は、ジャージのズボンの中へと滑り込んで、立ち上がり始めていた飛雄馬の臍下を掌で撫でさする。
「もっと声を出すんじゃあ、星よ」
「ぅ、あ…………っ、!」
伴の掌と己の腹とで押しつぶされ、擦られる男根からの刺激が、飛雄馬の背中を反らし、全身に汗を滲ませる。飛雄馬の背けた顔、その頬へと伴は口付けると、中を弄ったままジャージのズボンを引き下げ、浮いた腰からそれを剥ぎ取った。
器用に片手で、ズボンを膝のあたりまでずり下ろすと、伴は飛雄馬の足を左右に開かせ、その間に身を置いた。弾みで、足に引っかかっていただけのズボンが布団の上へと落ちる。
正真正銘、飛雄馬はトレーナーだけを身に着けた格好を取らされ、伴を前に彼を受け入れるべく、足を開いている。
そこから身をよじり、逃れようにも開いた足の間に腰を押し付けられており、飛雄馬は身動きが取れない。
尻にぶつかる、身震いするような熱さと圧に飛雄馬は、はあっ、と大きく吐息を吐いた。
何度、伴とこの行為に耽ろうとも、この瞬間は慣れないし、肌がざわつく。
だと言うのに、心は期待にうち震え、口の中にはじわりと唾液が滲み出る。
伴がようやく、ここに来て両手を握る手の力を緩めてはくれたが、その代わりに尻へと自身を押し付けてきて、飛雄馬は、伴の名を小さく呼んだ。
すると、少し伴が体を離してから、飛雄馬の体の中心、その入口へと男根をあてがうが早いか、彼の内壁を押し広げながら奥を目指してきた。
「つ……っ、伴、っ、まだ……ぁ、」
「す、すまん」
半ば、腹の中を埋めつつあった男根が、伴が腰を引くことで体内をこすり上げて、飛雄馬は体を反らすと、あぁっ、と鼻にかかった声を上げる。
「慣れ、ぇっ…………まで、動くんじゃない……」
「…………」
囁いた飛雄馬の腹の上で戦慄く男根からは、とろりと先走りが溢れ、白い肌を濡らす。
伴はそれからゆっくり、腰を押し進め、飛雄馬の中へと彼自身をすべて挿入させると、喉を震わせ喘ぐ唇にそっと口付けを落とした。
「ん、ん…………」
腹の中にぴたりと収まった伴の形を想像しながら、飛雄馬は己の体の脇に置かれた彼の腕に縋り、その肩口に指を寄せる。
石鹸の匂いを僅かに残した汗が、互いの肌の上には滲んでおり、飛雄馬は寄せられた伴の唇に応えるべく、口を開けた。
すると、伴が引いた腰を、尻に叩きつけてきて、飛雄馬は伴の舌へと吸いつきながら、入口を締める。
浅い場所を責めたかと思えば、奥を嬲っては、星、と熱のこもった声で名を呼ぶ声に、飛雄馬は涙で滲んだ瞳を向けた。
腹の中で達してもなお、失速しない伴の腰に対し、飛雄馬は、はしたなく声を上げると、その肩口にしがみつく。
そうして、ようやく伴が離れた頃には飛雄馬の全身は汗にまみれていて、幾度となく与えられた絶頂のせいで体の自由が利かないほどであった。
最低限の身支度を互いに終え、ふたりで寝るには狭い布団に体をすり寄せ、伴と飛雄馬はそれぞれ横になる。もう皮肉を口にする余力さえ残っておらず、飛雄馬は伴の熱い胸に抱き寄せられる形で目を閉じた。
「もうここから球場に通ったらどうじゃ、星よ」
「………………」
「う……あ、その、明日、少しはゆっくりする時間あるじゃろ。朝飯くらい食べて戻るとええ」
飛雄馬は夢うつつで伴の言葉を聞いている。
「……星も忙しいっちゅうのに、出迎えなんぞ頼んでしまって悪かったのう。嬉しかったわい。わしもまた頑張るから、星も無理するんじゃないぞい」
まったく、調子いいのは変わらんな、と飛雄馬は伴の腕に抱かれたまま、深い眠りへと落ちていった。
一方、伴はしばらくの間、飛雄馬の寝顔を眺めていたが、出張で使った荷物を整理すべく、それからそっと暖かな布団を抜け出したのだった。