塗布
塗布 小学校から帰宅した飛雄馬は、はあっ、と口元に当てた掌に吐息を吹きかけてから、ただいま、ねえちゃん。と自宅である長屋の引き戸を開ける。
「おかえりなさい、飛雄馬。今日は冷えるわね。温かいお茶でも入れましょうか」
すると、こたつに入り、微睡んでいたらしき明子が戸を開ける音で目を覚ましたか、少し気恥ずかしそうに頬を染めつつ腰を上げた。
「うん。雪がちらついてたよ」
ニコッと飛雄馬は顔を綻ばせると、靴を脱ぎ、居間へと上がる。
入れ違いに台所に立った明子が水を張ったやかんをマッチで火をつけたコンロの上に置き、再び居間へと戻ってきた。
「おとうさん、大丈夫かしら」
「とうちゃん、日雇いに出たの」
心配そうに呟いた明子に飛雄馬はそんな言葉を投げかけ、居間の壁づたいに置かれた勉強机に着くと、その上に教科書、ノート、筆箱を取り出し早速宿題に取り掛かる。
「近くだとは言ってたけど、心配ね」
「場所は?見に行ってこようか」
「いいのよ、飛雄馬は宿題を先に終わらせてちょうだい」
「はぁい」
沸いたやかんの中身を茶葉を入れた急須に注いだのち、緑茶で満たした湯呑みを明子は飛雄馬の元に差し入れた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ねえちゃん」
言いつつ、飛雄馬はふと、なんの気なしに姉・明子の手に視線を遣る。
すると彼女の指の関節にはあかぎれができてしまっており、白く、細い指が痛々しく赤に染まっていた。
その視線に気づいたか明子は、サッと手を隠し、気にしないでねと微笑む。
「クリームを買う金もうちにはないのかい」
「そんなことはないわ。ただ、もったいなくて……家事をしていたらどうせ取れてしまうし」
「ねえちゃん、美人なのに自分の身の回りのことにも気を配らないとお嫁のもらい手がないぞ」
「まあっ!この子ったら」
「どこにあるんだい?そのクリームとやらは。おれが塗ってあげるよ」
へへっ!といたずらっぽく笑いながら飛雄馬はタンスの引き出しを開け、中を探るが、明子にその下よと言われ、再びヘヘッ、と笑みを溢した。
そうして、改めて開けたタンスの引き出しの中から残量の少ないハンドクリームと書かれた容器を取り出すと、蓋を開け、中身を掌に取り出す。
「飛雄馬も、手や指には人一倍気を配らないといけないのではなくて」
明子の手を取り、己の掌に出したクリームを丁寧に、満遍なく塗り込んでやりながら飛雄馬はうん、と頷いた。
「でも、おれやとうちゃんにいつもおいしいごはんを作ってくれて、いつもユニフォームを綺麗に洗濯してくれるねえちゃんの手の方がもっと大事だ」
「……飛雄馬」
それを聞き、明子の声が心なしか震える。
「よし。これで大丈夫だね。おれが無事巨人の星になれたらさ、ハンドクリームだって何だって買ってあげるからさ。約束」
「いいのよ。飛雄馬、ねえさん、あなたのその気持ちだけで嬉しいわ」
目元に浮いた涙を拭い、明子はクスッと微笑むと、お茶、冷えないうちに飲んでしまいなさいと飛雄馬に茶を勧め、夕飯の仕込みを始めるにはまだしばらく時間があるからとこたつに足を差し入れる。
カサついていた手や指が、飛雄馬の塗ってくれたクリームのおかげで、明子には自分の手が瑞々しく艷やかに蛍光灯の下でつやつやと光って見えた。 
こたつに入って宿題したら、と明子が言うと、飛雄馬は、こたつに入ると寝ちまうからさと返し、教科書に書かれた算数の問題をノートに書き写していく。
宿題が終わったら、夕飯の前にとうちゃんとの投球練習が待っている。
寒い季節は指がうまく動かないし、体に球が当たると夏の倍は痛む。
早いところ、夏が来てくれないかなあ、と飛雄馬は冷えた指先を温めるよう、明子の入れてくれた湯呑みに手を添え、中身でそっと喉を潤した。