珈琲
珈琲 そろそろ風呂にでも入って寝ようかと考えていたところに客人の来訪を告げる玄関チャイムが鳴った。
飛雄馬は伴だろうか?とソファーから腰を上げ聴いていたクラシックのレコードを止めると、玄関先へと向かう。すると続けざまに二度目のチャイムが鳴って、飛雄馬は苦笑しつつ鍵を開けドアノブを握った。
「そう何度も押さずとも聞こえとるさ」
笑顔で客人を出迎えた飛雄馬だったが、開いた扉の先に立っていた彼が高校時代からの親友である伴宙太ではなく、阪神タイガースの天才打者、花形満であったために大きく目を見開いて、後退る。
「そんなに驚いたかい」
「は、花形さん、ねえちゃんは、あいにく買い物に出ていて、留守なんだ」
「………いや、明子さんに用があって訪ねたわけではない」
「よ、よく家が分かりましたね」
「フン、白々しい。巨人軍の星飛雄馬と言えば今や有名人だ。少し調べれば家などすぐに特定できるさ」
「………とにかく、何の用で家に?わざわざ」
古くからの知り合いとは言え、友人と呼べるほど親しくもなくどちらかと言えば因縁の相手、ライバル同士の関係である花形に対し、飛雄馬はどのように接したらいいか分からず、動揺を隠しきれずにいた。
そんな花形が何をしに家に訪ねてきたと言うのか。
「きみに会いに来た、と言ったら?」
「はあ?」
まったく何を考えているのかさっぱり分からない。そんな思いを飛雄馬は隠そうともせず、困惑した表情を浮かべたものの、立ち話もなんだから、ととりあえず部屋に招き入れた。
「…………」
「関西には慣れたかい」
他愛のない話を振るが、花形は答えず飛雄馬の後ろを黙って着いてくる。弱ったなあ、と飛雄馬は眉間に皺を寄せつつも花形をリビングに案内し、ソファーに座るように促した。
花形は素直にソファーへと腰を下ろすと、足を組んでからふいに視線を窓の外、その先にそびえ立つ東京タワーへと遣る。飛雄馬はその横顔をしばらく眺めていたが、コーヒーでも淹れるかと思い立って、キッチンへと立った。
ねえちゃん、さっさと帰ってきてくれないかな、伴でもいい、誰か来てくれないだろうか、と飛雄馬はヤカンで湯を沸かしつつ今なお、東京タワーを見つめている花形をヤカンの注ぎ口から立ちのぼる湯気越しに見ていた。
「いい眺めじゃないか」
「……一番いい眺めの部屋を契約したからね」
薄く笑みを口元に湛え、飛雄馬は答えるとふたつ用意したコーヒーカップにインスタントのコーヒーをスプーンで掬い入れてから、火を止めたコンロからヤカンを持ち上げカップに湯を注いだ。独特の香ばしい良い香りが部屋に漂った。
「ミルクと、砂糖は」
「……頂こうか」
そう言ってこちらを、飛雄馬の顔を仰ぎ見た花形の顔は男である飛雄馬からしても惚れ惚れするような二枚目ぶりであった。
野球のグラウンドではなく、投手と打者としての立場ではなく、星飛雄馬と花形満個人としてこうして向かい合ったのはもしかすると初めてかもしれないな、などと飛雄馬は考えつつスプーンでカップの中をぐるぐると掻き回してから、ソーサーに乗せたカップをそれぞれ両手に持ってリビングへと戻った。
「花形さんの口に合うかどうかは保証出来ないけれど」
「ありがとう」
花形はソーサーごとカップを受け取って、インスタントのミルクとスティックシュガーをそれぞれ一つずつ、コーヒーの中に投入した。ミルクを入れたことにより、コーヒーの色が黒から茶へと変わって、花形はスプーンで数回中身を掻き混ぜてからそれをゆっくりと啜った。
「……それで、何をしに来たんです、ここに」
「さっき、言わなかったかい」
花形は口に運びかけたカップから唇を離して、飛雄馬の顔を物怖じすることなく真っ直ぐ見つめてからそんな言葉を吐いた。
「だから、どうして、わざわざ」
「互いにユニフォームを身につけ、グローブとバットを持ち合わせていなければこの花形には会う価値もないと?」
「そ、そうじゃない。花形さんともあろう人がわざわざ何故家なんかに、と、そう、疑問に思っただけだ」
「……人に会うのに理由がいるのかい?会いたいから来た、それだけだ」
「会いたい、おれにですか」
ぐるぐる、ぐるぐると飛雄馬は床に座ったまま、テーブルの上に置いたカップの中をスプーンで掻き混ぜる。まるでその様が自分の頭の中のようだ、と飛雄馬は思う。いきなりやって来たかと思えばきみに会いに来たなんて、相当暇なのか?おかしな人だな、とさえ思った。
「明子さんとの生活には慣れたかね」
「はあ、まあ、それなりに」
「……ああ、そうだ。星くん、ちょっと」
「………?」
コーヒーを口に含んだばかりの飛雄馬を花形は手招き、何事かと立ち上がった彼を隣に座るように言った。
隣に?と飛雄馬は怪訝な表情を浮かべたものの、何か理由があってのことだろう、と招かれるがままにソファーの、花形の隣へと腰を下ろす。と、花形は事もあろうにソファーの座面へと何気なしに置いた飛雄馬の右手を握ってきたのだ。
「な……!?」
驚き、花形の顔を目を見開いて見つめる飛雄馬の瞳を、その彼は何一つ動揺も緊張も、羞恥のそれさえ見せることなくじっと見つめてきた。なんと真剣な、澄んだ目だ、と飛雄馬は思わず呼吸さえも忘れて魅入った。思わずこちらが赤面してしまうほど端正な、美しい顔を向けられ飛雄馬は狼狽し、かあっと頬を染める。
「星くん……」
花形の唇が微かに動いたかと思うと、組んでいた足を解いて飛雄馬との距離を詰めてきた。逃げようにも手を握られているために飛雄馬は動けず、近付いてくる花形の顔から視線を逸らすことも出来ないままであった。
するとどうだ、花形は目の前の彼の唇に己のそれをそうっと押し当てて、その挙動に驚き、目を閉じ仰け反った飛雄馬の左腕を空いている右手で強く掴んだ。
飛雄馬は何の躊躇いもなく口内に侵入して来た花形の仄かに舌に残っていた砂糖とミルクの混ざった甘いコーヒーの味に頭の中がぼうっと靄が掛かったようになるのを感じた。逃げる舌を花形が追って、飛雄馬の上顎を舌先でなぞると、彼の白い喉仏が二、三度上下する。
は……っ、と吐息を漏らして飛雄馬は目を開けると己になんの脈絡もなく、突然口付けを与えてきた花形の顔を見つめた。体の奥がじんわりと火照って、飛雄馬は絡む舌の熱さに身をよじる。
いつの間にかソファーの端にいた飛雄馬だったが、逃げようとするあまり仰け反った際、肘置きに乗せる形になっていた頭は口付けを与えられている間にソファーの座面に落ちており、花形の体の下に跨られるようにして組み敷かれていた。
とは言え、狭いソファーの上で花形の片足と飛雄馬の体だけが座面に乗っており、花形の右足は床に着いている状態であった。
「な、がたさっ……」
顔を振り、逃げる飛雄馬の顎を掴んで、花形は尚も彼の唇を貪った。呼吸もままならないまま、飛雄馬の口の端からは唾液が滑り落ち、その首筋を伝った。
そうして花形は飛雄馬の唇を解放してやるや否や、上ずって、露わになっていた彼の首筋に唇を押し当て、吸い上げながらそこに赤い跡を付けていく。
「は、っ…………や、それ、は」
「バレたら困るかね」
微笑混じりに花形は囁いて、吸いついていた飛雄馬の柔らかな皮膚に歯を立てる。 ビクッ!と飛雄馬の体が大きく跳ね上がり、花形の肩を掴んだ。
白い肌に丸い歯型が浮かび上がって、そこに赤い血が滲む。
花形はそれを舌先で舐め取りつつ、飛雄馬の羽織るカーディガンのボタンを外すと、その下のシャツを留めるボタンをも穴から一つひとつ外してやった。彼の首筋には鬱血の跡と、出来たばかりの軽い咬創が見てとれた。
「はぁ、っ………」
飛雄馬は目元に腕を乗せ、僅かに開いた唇から吐息を漏らす。そうして花形は、飛雄馬のはだけたカーディガンとシャツの下に着用していたタンクトップの裾をスラックスの中から引き出して、彼の肌へと直接触れる。
「っ、く……」
そろり、そろりと指先が飛雄馬の腹を撫で、脇腹をくすぐったかと思うと、指の感覚にばかり集中していた彼の唇に花形は口付けた。驚いて背中を反らした飛雄馬の腰から花形はベルトを緩め、スラックスを脱がせてやる。
現れた下着の中で、飛雄馬の逸物は既に膨らんでいた。
けれども、花形はそこには触れようとはせず、飛雄馬の唇に口付けたまま彼の胸を責めに掛かる。小さな胸の突起を花形が指で抓んで、僅かに捻ると飛雄馬の体は震え、じんわりと汗をかいた。
固く芯を持ち始めるそこを花形が抓んだ指の腹同士で捏ね上げてやると、口付けたままであった飛雄馬の唇が離れ、ううっ、とくぐもった声がその口からは漏れる。
「星くん、顔を見せて……」
「い、いやだっ、さっさと、さっさと終わらせてくれっ……」
声を振り絞るようにして叫んだ飛雄馬の腕の下、その両目からは涙が滴った。花形はそれを目の当たりにしつつ、抓んだ指に力を込める。ビリッ、と電流が走ったような痛みが体を貫いて、飛雄馬は小さく悲鳴を上げた。
「そうか。嫌だったのか……フフ、ここをこんなにしているからきみも楽しんでいるのだとばかりぼくは思っていたよ」
言うと花形は飛雄馬の乳首から手を離し、体を起こすと、己の尻の後ろ付近にあった彼の男根を下着の上から撫でた。
飛雄馬はギリッと奥歯を噛み締め、声を出すのを堪える。
「さては初めてではないね。まあ、あの伴豪傑との仲を見ていればそれも当然だろうがね」
「伴、っは……関係ないだろ……」
「…………」
花形は飛雄馬の逸物を下着の上からしばし撫でさすっていたが、ふいに彼の腹に留まっていたゴムの部分をめくった。すると限界まで勃起しきった飛雄馬の男根が跳ね上がるようにしてそこから顔を出し、その鈴口から下着へと先走りの糸を伸ばしていた。
「彼に抱かれる想像でもしていたらいい」
「あ、いつとは……何もない、伴とは、そんな……仲じゃない」
「嘘が下手だね、きみは」
腹立たしささえ覚えつつ、花形は飛雄馬の逸物を後ろ手に握るとそれをゆっくりと上下に擦り始める。
「い、ッ……伴、は、ば、んっとは……口付けさえ、したことが、ないっ」
飛雄馬の逸物からとろとろと溢れる先走りが花形の手指を濡らし、その上下の動きに滑らかさを与えた。
「へえ………それじゃあ、ぼくが初めてか」
「ん、ンッ……は、ながた……ァっ」
亀頭と裏筋を繋ぐ位置を手の腹で擦ってやりつつ、花形は問う。飛雄馬は開きっぱなしの口から唾液の線を顎下に描きつつ、花形の与えてくる責めに喘いだ。
「それは、光栄だね」
目を細め、花形は言うと飛雄馬から手を離し、一度彼の上から降りた。そうして、飛雄馬の足を掴み、その膝の位置から曲げさせると、空いたソファーのスペースに乗り上げて花形は穿いているスラックスの前を開け、中から男根を取り出す。
飛雄馬は突然逸物から手を外され、体の上から重みが消えたことで一瞬、目元から腕を外して花形の動作を目で追った。
すると、前述の通り、花形は再びソファーに乗り上げてきたかと思うといきり立った逸物を取り出してきたために飛雄馬は心底驚いたような表情を浮かべ彼を仰いだ。
「何をされるか、分かるかい」
花形の嬉しそうな表情と声色に飛雄馬の全身に鳥肌が立つ。熱の集まった逸物、その数センチ下の後孔が恐怖ゆえかきゅうっと締まった。
「痛くはしないさ。安心したまえ」
言って、花形は飛雄馬の足から下着を抜きとってから片足を脇に抱えると彼の尻の位置に己の腰を寄せ、立ち上がった逸物、亀頭部位をそこに押し当てる。
先走りを数回そこへ撫で付けてやって、花形は右手中指を一度口に含んで唾液を十分指に纏わせてやってから、己の先走りを塗り付けた飛雄馬の後孔へ指を滑らせる。
「あ、っ………」
ピクン、とやや萎えかけていた飛雄馬の逸物が反応する。
花形はゆっくりと彼の内壁を撫で上げながら指を奥へ奥へと侵入させていく。興奮し、火照る飛雄馬の体の中は肌の表面とは比べ物にならないくらいに熱い。指から感じるその熱だけで花形は気を遣りそうになるのを堪え、飛雄馬のそこを丹念に解してやる。
「ん、ん………っ、ん……」
飛雄馬の足が揺れ、漏れる声も高くなった。花形は頃合いを見計らって、人差し指をも飛雄馬の中に挿入させる。しかして、二本はまだキツかったか、驚いた飛雄馬は花形の指を締め付け、びくっとその腰を震わせた。
花形は左手で飛雄馬の逸物を握ると、それを利き手ではないゆえにぎこちなくではあるがしごいてやる。
すると飛雄馬は花形の指を強く締め付け、腰をくねらせた。完全に逸物は立ち上がって、花形の手を再びその先走りで濡らした。ぎこちないその動きがもどかしく、飛雄馬をいつまで経っても昇りつめらせてくれない。
「あ、あっ………!あっ、花形さ……」
「イキたいかい」
「っ、だれ、がっ………」
「フフッ………まだ理性はあるようだね」
囁いてから花形は飛雄馬から指を抜くと、彼の尻へと腰を寄せる。逸物を手で握って、窄まりへと充てがうと強く腰を打ち付けた。指以上に質量のある逸物は飛雄馬の体内を潜って、指よりも更に奥深いところへと突き進む。
「か、っ…………」
あまりの圧と、熱と、大きさに飛雄馬は喉から乾いた声を上げる。今まで彼が一度も感じたことのない感覚。
開いた股関節が軋んで、体重のかけられている腰はいくらソファーの座面の上とは言え、痛みを覚える。腹の中を巻き込むように、引きずるようにして奥へと突き進む熱、飛雄馬はその妙な感覚と痛みに歯を食いしばった。
「は、あ…………っ、はっ………」
体の中心を貫く花形の形を彼自身の体内の粘膜が鮮明に飛雄馬に伝えてくれる。
あの花形さんが急に訪ねてきたかと思えば、この状況は何なのだ。何故おれは全裸にも近い格好で、花形さんを腹の中に埋めているのか。
訳がわからない。気が狂いそうだ。飛雄馬は花形の額に浮かぶ汗を目元に置いた腕をほんの少しずらした先に見上げつつ、そんなことをぼんやりと思った。
頭の奥はじんじんと痛んで、夢か現かそれさえもはっきりしない。
花形は飛雄馬の中に自身を埋めたあと、しばらくじっとしていたが、ふいに腰を引いたかと思うと飛雄馬の尻にその腰を勢いを付け打ち付ける。
体内に埋められた花形の逸物が今まであった場所より更に深い場所を抉って、飛雄馬の体を揺さぶった。それを受けた飛雄馬の体が大きく仰け反って、彼の頭頂部は座面に音を立て擦れる。
食い縛った歯の隙間から思わず声が上がって、飛雄馬はソファーの側面を爪で掻いた。
「ぐ、ぅうっ………ッ」
血は止まったが、未だ噛み跡の残る首筋を飛雄馬は晒して、喘いだ。花形の欲望のままに腹の中を抉られて、擦りあげられて飛雄馬は呻き、喚いた。二人の乗るソファーは花形の動きに合わせ軋み、揺れる。
花形は飛雄馬の喉笛に淡く噛み付いて、滲んだ体液に舌を這わした。
「いっ、……た、あっ、あっ」
「星くん、出すよ……」
言うなり、花形は腰の動きを速め、飛雄馬の腹の中をより深く、より奥を穿つ。
がくがくと体を揺さぶられ、飛雄馬は強く目を閉じる。腹の上部を強く擦り上げられ、飛雄馬は妙な感覚を覚えつつあった。体の奥から何かが込み上げてくるようなそんな感覚である。
「は、っ、ながたさ………」
名を呼んで、飛雄馬はそこで初めて押し寄せる快楽の波に身を委ねた。何度も何度も体が震え、花形を締め上げる。
「星くん……」
囁くように花形は飛雄馬を呼び、その唇から漏れる呼吸を己の口で塞ぎつつ、彼の中で果てた。最後の一滴までを彼の中に注いでやってから花形は飛雄馬から体を離すと、ソファーの近くに転がっていたティッシュ箱を拾い上げ、中身を数枚抜きとってから逸物を拭う。
そうして、乱れた衣服を直してから、床に直接座り込むととっくに冷えてしまっているコーヒーを流し込む。飛雄馬はソファーの上に寝転んだまま、肩で荒く息をしていた。
「……………」
空になったカップをソーサーの上に置いて、花形は窓の外に視線を遣る。ここを訪ねてきたときは晴天の青空の中東京タワーがくっきりと見えていたが、今は日は沈み、東京タワーも闇に飲まれつつあった。 すると、飛雄馬はゆっくり体を起こして花形を見下ろす。花形も視線には気付いていたが飛雄馬の顔を仰ぐこともしなかった。
「………ずっと好きだった」
「呪いですか、それは」
独りごちるように呟いた花形に間髪入れず飛雄馬は語気強く、そんな言葉を投げかける。
「呪い……フフッ、馬鹿の独り言と聞き流してくれればいいものを、呪いと来たか」
「人をこんな目に遭わせておいてそんな言葉を吐くとは……」
ふらふらと座位を保つのも覚束ないまま、飛雄馬は床に落ちていた下着を拾い上げると両足を通してそのまま身に付けた。
「それならば一生囚われ続けて貰おうか。ぼくの言葉に」
「……そのつもりで、花形さんはここへ来たのか?」
「……………」
立ち上がり、花形は一人玄関先へと向かう。飛雄馬に背を向けたまま靴を履き、扉を開け外に出る。飛雄馬は追っては来ない。端から花形自身、期待などしてはいないが。廊下を歩んで、一階へと降りるエレベーターの前に立ち、ボタンを押す。
エレベーターの箱を手繰る機械音が廊下に響く。そうしてエレベーターが到着し、開いた扉の先に花形は乗り込んで1のボタンを押す。トビラはゆっくりと閉まって、下へと降りていく。
「………星くん、ぼくはきみが好きなんだ。ずっと、野球を続けているのだってそうだ」
誰もいない箱の中で呟いて、花形は一階に到着した先でエレベーターから降りる。すっかり辺りは闇に包まれ、夜がすぐそこまで来ている。
花形はスラックスのポケットにそれぞれ手を差し入れたまましばらく歩いて、マンションの来客用駐車場に停めたオープンカーに飛び乗るとエンジンを掛けた。聞き慣れた、落ち着く音だ。
アクセルを強く踏み込んで、ハンドルを握り込んで花形は夜の街を駆け抜ける。抱いた思いを払拭するかのように。
昼間はあんなに晴れていたと言うのに、空は曇り、星ひとつ出ていない。花形は雨か、とぼやいて頬を手で拭う。何度も、何度も雨垂れが頬を伝うのを花形は静かに拭いながら、夜の首都高を一人、行く宛もなく走った。