文通
文通 飛雄馬は手にした葉書の表面に書かれた差出人の住所、氏名に視線を落としてから再び顔を上げると、目の前にある屋敷の表札を仰いだ。
この住所で間違いない、と。
話は、飛雄馬が大リーグボール2号を公式戦にて披露した時期に遡る。巨人の星にはそれまでも郵便配達員が辟易するほどのファンレターの束が届いていたが、新たな魔球を開発してからというもの、更に大量の葉書や封書が届くようになっていた。
飛雄馬はそれら一通一通に目を通し、律儀に返事を書いていたが、そんな中、宮崎県から送られてきた一枚の葉書の差出人──出生時のとある事情にて生まれながらに視力が弱いという少年──母親に代筆を頼んでいるという彼には特別な感情を抱いていた。
特定のファンにだけ入れ込んでしまうというのは良くないと分かっていながらも、投函場所が宮崎ということ加え、身体的不自由といった障壁を抱えている少年にはどうしても彼女を重ねてしまったのだ。
少年とはこれまでに何度か葉書や封書のやり取りを行い、時には励まされ、時には励ますということを繰り返し、誕生日には微々たるものではあるが、プレゼントを贈ったりもしていた。
そんな中で、飛雄馬は親友・伴との別れを経て、左腕を壊し表舞台から姿を消した。
それからおよそ半年。
飛雄馬は、ようやく宮崎在住の少年宅を訪ねた。
視力が徐々に落ち始め、飛雄馬兄ちゃんの顔が段々と見えなくなってきている、と少年──タケ坊は言っていた。伴との一件のあと次第に返事を書くことも疎かになり、行方をくらませておきながら巨人の星でございと今頃になって顔を出したらきっとタケ坊はどうして、なぜ今更とおれをなじるだろう──そんな不安とばつの悪さから、飛雄馬は何度も近くまで来ておきながら屋敷の戸を叩くに至らなかった。
今日は、住所を頼りに家の前まで来てはみたものの、足がすくんで動かない。タケ坊に偉そうに説教しておいてこの様。
「…………」
飛雄馬は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いてから玄関の来客用チャイムを指で強く押し込んだ。
予想以上に大きな音が鳴り、飛雄馬はドキッ!と身を震わせた
汗が額に滲み出ている。嫌な汗だ、決心が揺らぐ。
すると、ひと呼吸置いてから玄関の扉が開き、長い黒髪を後ろでひとつに束ね、上半身はブラウスの上に薄手のカーディガン、下半身は膝丈のスカートに腰巻きエプロンを纏った若い女性が、どなたですかと顔を出した。
女性は、野球帽を目深にかぶり、無造作に肩まで伸びた髪もそのままにトレンチコートの袖を肘までまくったいかにもゴロツキといった飛雄馬の出で立ちに、ヒィッ!と悲鳴を上げた。
「すみません、突然……おれ、いや、ぼくは怪しい者では……」
「な、何のご用ですか!お帰りください。警察を呼びますよ!」
金切り声を上げ、開けた扉を閉めようと後退った女性の背後から飛雄馬兄ちゃん?と少年の弾んだ声が辺りに響いて、飛雄馬は、タケ坊?と思わず口走った。
「ほんとうに飛雄馬兄ちゃん?きてくれたの?」
驚いたのか、背後を振り返ったまま固まった女性の後ろから飛雄馬兄ちゃんと呼んだ少年が、両目を閉じた状態で壁を片手でなぞりながら玄関まで歩いてくるのを目の当たりにし、飛雄馬は胸に込み上げるものを感じる。
「タケ!危ないから来ちゃだめよ!」
女性が鋭い声色で少年を呼ぶと、彼はビクッ!と体を震わせ、その場に留まった。
それから、彼女は飛雄馬に、どうぞ中へと促し、少年の手をそっと握ると玄関から廊下を抜け、テーブルの置かれたキッチンへと向かう。
飛雄馬もまた、お邪魔しますと頭を下げ、帽子を取ると玄関先で脱いだ靴を揃えてから彼女らのあとに続く。
「すみません、大きな声を出して」
「いえ、こちらこそすみません。突然に……」
テーブルに着いた飛雄馬に急須から緑茶を注いだ湯呑みを出しつつ、恐らくタケ坊の母親であろう女性は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「…………」
「この子、あなたからいつか会いに行くって返事をもらってからと言うもの、うちに来客があるたびに飛雄馬兄ちゃんが来てくれたって言うんです。星さんは忙しいから会いに来れないって宥めるんですけど、飛雄馬兄ちゃんは絶対会いに来てくれるって言い張って……」
「飛雄馬兄ちゃんはうそつきじゃないもん。ぼく、飛雄馬兄ちゃんのことしんじてたもん」
「遅くなってごめん、タケ坊……お母さんも、おれのせいでご迷惑を掛けてしまって面目ないです……」
「いえ、こちらこそご負担を掛けて……タケ坊、私が返事を書かないと怒るんですよ。書いたらすぐにポストに葉書を出しに行くんだって言って私の手を引くんです。雨の日も、雪の日も……返事を待ち侘びて今日はお返事来てたって毎日尋ねるんです」
こんなものしかありませんけどとタケ坊の母は茶請けにと個包装の饅頭を飛雄馬の前に差し出し、自分もまたテーブルへと着いた。
「ぼくね、もうしょうがくせいになったんだよ。もうがっこうってところにかよってるの。ゆびでじをよむんだよ」
「…………おめでとう、タケ坊」
こうやってね、とテーブルの上を指先でなぞりつつ、少年──タケ坊はニコリと微笑んだ。
「手紙が来なくなって、星さんが行方不明になってからはこの子も塞ぎ気味で……ごめんなさい。こんな話ばかりして」
「いえ……すみません。返事も出さずじまいで……タケ坊、学校は楽しいかい」
「うん。たのしいよ。がっこうでね、グランドソフトボールっていうのをやるんだ。おとをきいてたまをうつの。飛雄馬兄ちゃんとおんなじやきゅうをやってるんだ」
飛雄馬と同様に湯呑みへと注がれた茶を器用に啜りながらタケ坊は飛雄馬兄ちゃんがいなくなって寂しかったけど学校では友達ができたこと、本が点字で書かれているものであれば自分で読めるようになったこと、もうすぐ校内でグランドソフトボールの試合があることを饒舌に語った。
「…………」
「飛雄馬兄ちゃんががんばってるからぼくもがんばってるよ。さびしくてずっとないてたこともあるけど、おかあさんにめそめそしてたら飛雄馬兄ちゃんにわらわれるよっていわれてからはなかなかったよ」
「タケ!」
母の鋭い一声を浴びてタケ坊は肩をすくめると、ぺろっと舌を出してみせた。
「飛雄馬兄ちゃんはもう、やきゅうはやらないの?」
タケ坊の話を聞きながらどこかホッとし、目頭を熱くしていた飛雄馬だったが、ふいに放たれた一言に、頭を殴られたような気になった。
「タケ坊、いい加減にしなさい」
「ぼく、やきゅうをしてない飛雄馬兄ちゃんもすきだけど、やきゅうをやってる飛雄馬兄ちゃんはもっとすきだよ。ひだりうでがつかえなくなったってきいたけど、ぼくといっしょだよ。ぼくもめがもうぜんぜんみえないんだ。だけど、がんばってるよ。だから飛雄馬兄ちゃんもいっしょにがんばろうよ」
「タケヒコ!」
「いえ、お母さん、タケ坊を、タケヒコくんを怒らないでください。おれは、ここに来るまでタケヒコくんに会うのが怖かったんです。手紙の返事を書かなかったこと、姿を消したことを咎められるかと思っていました。手紙では偉そうなことばかり言っておきながら……でも、タケヒコくんにこうして言われたことで胸のつかえが取れたような気がします」
お茶、いただきますと付け加え、飛雄馬は湯呑みに口を付ける。
「いつか飛雄馬兄ちゃんのなげたたまをうってみたい。こんどはがっこうにきてよ!ね!せんせいにはなしておくからさ。飛雄馬兄ちゃんのことはがっこうのせんせいもしってたよ。ね!やくそく」
「…………」
「タケヒコ、星さんを困らせないで。ごめんなさい、私が甘やかして育てたせいで……」
「いいえ、大丈夫ですよ。こちらこそタケヒコくんのお母さんには申し訳ないことをしました。ごめんよ、タケ坊……わかった、約束しよう」
椅子から立ち上がり、声を荒らげた母親を制し、飛雄馬は今は明暗の判別が付くだけだという目を開いたタケ坊の、指切りげんまんの形で伸ばしてきた手、その小指へと自分の指を絡ませる。
「…………」
それからしばらく、飛雄馬はタケ坊の遊びに付き合ってやり、母親手製の夕食をご馳走になってから屋敷を後にした。何でもタケ坊の父は単身赴任とかで長らく家を空けているという話で、泊まって行ってはという申し出を丁寧に固辞し、遅くまでお邪魔しましたと頭を下げてから、夜の闇に包まれた住宅街をひとり歩く。またねと手を振ったタケ坊と、深々と頭を下げた母親の姿がまぶたの裏に焼き付いている。
彼に、恥じぬ生き方をしなければ、と決意新たに真っ直ぐ前を見つめ、伸ばした左腕の先で拳を握る。
……宮崎、この地に足を踏み入れるのは何年ぶりになるだろうか。
穏やかで、暖かな同じ日本でありながら、東京とは違ったゆったりとした時間が流れている。
明日は、海にまで足を伸ばしてみることにしようか。
彼女と歩いた海岸沿いまで。
飛雄馬は丸い月の浮かぶ夜空を見上げ、あまりの星の明るさと眩しさに立ち止まり、小さく微笑んだ。