茫洋
茫洋 「星さんの瞳って澄みきっていてとても綺麗。曇りがなくてキラキラと輝いているわ」
「え?」
地平線に沈みゆく夕陽を背にしながら隣を歩く日高美奈に突然、顔を覗き込まれ、驚いたのも束の間、彼女の口を吐いた言葉に飛雄馬は後退り、その大きな目を見開いた。
美奈さんは、突拍子もなく、こういうことをするから心臓に悪い──と飛雄馬は視線を泳がせ、目の前の彼女が微笑んだのに合わせ、顔を綻ばせる。
今までクラスの女の子たちとだってそれなりに話したことはあったし、家にはねえちゃんだっている。
だけど美奈さんは、ねえちゃんともクラスの女の子たちとも違う──急にこうして距離を縮めてきたり、どこか遠くを見つめつつ、憂いを帯びた表情を浮かべていたり、どこか儚げというか、不思議なところがあるように感じる。
こういう人を浮世離れしている、と言うんだろうか。
だからこそ、美奈さんに瞳が綺麗だ、なんて言われて驚いてしまった。
おれが知らないことを、見たこともないことを、この人は、美奈さんはたくさん知っている。
それなのに、傲慢なところも高飛車なところもない──そりゃあ、初めて会ったとき頬を張られたのには驚いたが──あれはおれの気の緩みが招いた結果で──いざお互いのことを少しずつ語り合い、歩み寄っていくうちに、美奈さんはどちらかといえば物静かでおしとやかな人であることを知ったのだ。
「美奈、星さんの瞳が……いいえ、それだけじゃない、あなたの素直で真っ直ぐなところ、繊細で感じやすいところ……とても好きなの」
「み、美奈さん。やめてください、さっきから。褒めても何も出ませんよ」
「いいえ、恥じることはないわ。本当のことなんですもの……」
美奈さんは、人を褒めるのが上手だと感じる。
やたらに煽ててもわざとらしく聞こえるし、かと言って心がこもっていなければ、いくら美辞麗句を並べ立てたところで相手には響かない。
一番褒めてほしかった人からはめったに褒められることのなかったおれは、誰に何を言われても満たされることはなかった。
だと言うのに、美奈さんの言葉はすんなりと受け入れられ、そればかりかおれの空いた心の穴を埋めてくれるのだ。
「おれも、美奈さんが好きです。強くて、物知りで、看護婦の仕事で忙しいのにこうして時間を作ってくれて……」
「…………」
「美奈さん?」
ああ、またあの目だ。
美奈さんが空を見上げ、物思いに耽るがごとくどこか困ったように眉根を下げるのはどうしてなのだろう。
尋ねたところで、何でもないとはぐらかされてしまう。いつも明るく、朗らかなのに、それでいて騒がしいわけじゃない……何か悩みでもあるんだろうか。
「うふふ。ごめんなさい。そろそろ帰りましょう。美奈、星さんの親友さんに怒られてしまうわ」
「し、親友?伴ですか?」
「……伴さんにあまり心配をかけてはだめよ」
「美奈さんに言われると弱いな」
「羨ましいわ。伴さんが」
「え?」
美奈さん、今、なんて──?
飛雄馬は訊き返そうとして、足を止めた。
美奈は振り返らず、海岸線にほど近い、アスファルトとコンクリートで舗装された遊歩道を先に行く。
その後ろ姿を飛雄馬はすぐには追いかけず、彼女の紡いだ言葉の意味を思案する。
しかし、それらしい答えはどうにも導けず、飛雄馬は走り出す。
陽は地平線にほぼ沈みかけ、辺りには夜の気配が漂い始めている。
「星さん、それじゃあ、おやすみなさい」
追いすがることを拒否されるように囁かれた別れの挨拶に、飛雄馬はそれきり先には行けず、闇夜に紛れるようにして沖診療所へと引き返していく彼女の後ろ姿を、口を噤んだままひとり、じっと眺めていることしかできなかった。