墓参
墓参 墓石の前で膝を折り両手を合わせた背後からふと影が差したもので、沖竜太郎は何事かと後ろを振り返った。
お久しぶりです──そう、微笑を湛えつつ頭を下げた青年の名を沖は口にして、勢い良く立ち上がる。
「……ご無沙汰、していました」
外したサングラスを着ていたコートのポケットに仕舞って、真っ直ぐに沖を見据えた彼は少し、寂しそうな表情を浮かべていた。沖もまた青年から目を逸らして、数歩、後ろに下がると墓石の前を空ける。
すると彼は──星飛雄馬は先程、沖がしていたように膝を折ると、持ち寄った菊の花と線香とを手向けてから両手を合わせた。 しばしの沈黙。
潮の匂いの乗った風がふわりと二人の肌を撫でる。
海沿いの霊園に建てられた一基の墓には日高家代々之墓と刻まれていた。
「…………」
「度々、訪れているのかい?」
沖が尋ね、飛雄馬は立ち上がると、ええ、と答える。
ここには、数年前まで沖が開いた診療所で看護婦をしていた日高美奈という少女が眠っている。彼女と星飛雄馬はこの九州、宮崎の地で心を互いに通い合わせた。
手を繋いだことも、唇を重ねたこともない、ただただ、自分の境遇を語り合い、打ち寄せる波の音に耳を傾け、宮崎の街を共に歩いた。
けれどもそれは、そのすべてが星飛雄馬にとっての淡い青春であったし、今でもその情景を、彼女の顔を、声を鮮明に思い出すことができる。
それだけ、日高美奈と共に過ごした時間は星飛雄馬にとってかけがえのないものであった。
「………先生は、今も診療所を?」
「ああ、お陰様でね。星くんは、今は、何を?」
一瞬、沖は訊くのを躊躇ったが、あえてそう、尋ねる。目の前に立つ彼は記憶にあった星飛雄馬よりも幾分か背が高くなり、はたまた髪型も違っていたが、何とも言えない哀愁を帯びた瞳の色や表情で彼が何者であるかを沖は察したのだ。
「よく、分かりましたね。今まで誰もおれを──ぼくを、星飛雄馬と気付いた人はいませんでしたよ」
「宮崎には、いつ?」
「今日です。ふふ、日雇いをしたり、草野球の助っ人をしたりと全国を転々としています」
「そうか」
「宮崎は、暖かいかと思ったんですが、やはり冷えますね」
「ああ、冬はね。星くん、よかったら診療所に来ないか。今日は土曜だろう。午後からは診療所を閉める」
「……………」
供えた線香の香りが飛雄馬の鼻をくすぐる。
「無理にとは言わないが」
「いえ、お邪魔します」
申し出を受けた飛雄馬と二人、タクシーに乗り込んで、山中深くに構えた沖診療所まで舗装されていない山道を揺られた。
飛雄馬はタクシーの運転手にあんた、巨人の星じゃないか?と話を振られたが、人違いだとそれを突っぱね、釣りはいらないと万札を彼に渡した。
何やら納得がいかぬようであったが運転手はそれ以上追及してくることはなく、来た道を引き返して行き、沖は診療所の出入り口の施錠を解き、中に足を踏み入れる。
飛雄馬もそれに続き、後ろ手で戸を閉めた。どこか懐かしい薬品の匂いが鼻を突いて、飛雄馬は辺りをぐるりと見渡す。
と、聴診器や医学書の置かれた机の上にまだ元気な頃の日高美奈の写真の入れられた写真立てを見つけ、飛雄馬は目を細める。
「日高くんは、きみと出会ってから本当に楽しそうだった。どこか寂しげだった顔にも笑顔が戻って、それこそ太陽のように輝いていたし、患者さんたちも日高くんのそんな屈託のない笑顔に尚更惹かれ、うちを訪ねてくれていた」
「そう、ですか………考えないでもなかった。おれが、連れ出さなければ、遠方に出向かせなければ、もっと彼女は長く生きられたのではないか、と」
写真立てを手に、飛雄馬はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「星くん、それは違う。日高くんは、きみと出会えたからこそああまで生き永らえることができたんだよ。きみと出会ってからの日高くんは、本当にいきいきと輝きに満ち溢れ、幸福だった」
「…………それは、そう、思っていたのは今となってはおれだけだったのかも知れない、とずっと悩んでいました。彼女は辛い中、おれを心配させぬよう、一生懸命我慢をしていたんじゃないか、本当はもう来て欲しくはないのに無理をして、会ってくれていたんじゃないか、ふふ……こんな話をしに来たつもりじゃあ、ないんですけど」
写真立てを戻し、飛雄馬は目を閉じる。
「………腕の調子は、だいぶいいのかね」
「腕?ああ、先生も、ご存知なんですね」
言って、飛雄馬は自身の左腕をさする。
星飛雄馬の左腕があの日、壊れてしまったことを知らない人間が果たして、この日本中探しても存在するのだろうか、と沖は飛雄馬の顔を見つめながら当時のことを振り返る。
星飛雄馬の高校時代からの親友であった伴宙太が中日にトレードされた、というスポーツ紙の見出しにも度肝を抜かれたが、まさかその彼との一戦で放った大リーグボール三号と称される投球が彼の左腕の筋肉と神経とを破壊する悪魔の変化球であったとは。
あの試合のテレビ中継の視聴率は相当のものだったと聞く。
それだけ日本全国の野球ファン、のみならず普段は野球になぞ興味のない層までもが親友対決を手に汗握り、瞬きするのも忘れ、見守ったのだ。
そうして、その試合きり、行方不明になってしまった彼の所在は未だ知れぬ、と。
週末は必ず日高美奈の眠る地を訪ねる沖であったが、時折、生けた花が綺麗に取り替えられ、線香があげられている時があり、馴染みの患者に訊いても、自分ではないと言われることが年に一、二回ほどあった。
恐らく、彼が来ているのだろうな、と沖は思いこそすれ、何かあれば診療所を訪ねてくれるに違いないし、彼が会いたくないのであれば、わざわざその腕を掴もうとも、何故来なかったとなじる気も更々なく、ただ、この広い日本のどこかに、彼は存在しているのだ、とまだ生けられたばかりの花々を見て、そんなことを考えていた。
その邂逅が今、ようやく果たされて、沖は彼の左腕の容態について尋ねた。
飛雄馬はそれを受け、日常生活は何の支障もなく行えるようになりました、と左手の指を握ったり開いたりと繰り返して見せる。
「…………他の医者には、見せたのかい」
「何軒か回りましたが、言うことは皆同じです。治ったところで、戻る気もありません」
「本当に?」
「……………」
飛雄馬は口を閉ざし、沖は更に言葉を続ける。
「長島さんが引退し、新監督に就いてからジャイアンツの成績は低迷している。そうだろう」
「ええ、ですが、それはおれにはもう、関係のないことです」
「現に今、宮崎にジャイアンツがキャンプに来ている」
「何が、言いたいんです」
眉をひそめ、飛雄馬は問う。
「………きみの心は決まっているんだろう。すでに」
「何の話だか、先生。おれは美奈さんの墓参りに宮崎を訪れただけです」
飛雄馬はコートのポケットに仕舞ったサングラスを取り出し、それを掛けると視線をついと写真立てに投げてから、お邪魔しました、と小さく会釈する。
「星くん。きみの歩む道はこれから先、辛く厳しいことばかりかも知れない。けれど、どうかそれが間違いだった、とか、選ばなければよかったなどとは思わないでほしい。日高くんは君に出会えてよかったし、幸せだったんだ。何も間違っちゃいない、誤ってもいない」
「…………」
飛雄馬は答えず、歩み出すと、出入り口の戸を開けて外に出た。
その後ろ姿をただじっと見守りながら、沖は戸が閉まる音を聞く。
彼は未来に向けて歩み始めたのだ。
ゆっくりと時間と、年月とをかけ確実に。
彼が何故、あえて自分と顔を合わせることを選んだのか。
沖は日高美奈が生前、自分は野球のことを楽しそうに話す星さんが好きと言っていたことを思い出す。
星さんは野球を憎んでいた、と、あまり好きではないと言っていたけれど、それでも、おれにはそれしかないから。
それでも、美奈さんと話していると、野球に、父に抱いていた感情が溶けて解けていくようだ、と彼女は星飛雄馬が語ったことを話してくれた。
そんな親密な関係だからこそ打ち明けられたであろう星飛雄馬の話を自分にしてくるなんて、と当時、沖は苦笑したが、今になって考えれば、彼女もまた、自分の命の終焉を知っていたのかもしれない。
沖は近くに咲いているのか、ふと香った百合の花の匂いに日高美奈の顔を思い浮かべ、彼女が星飛雄馬のことを心配してここにやって来たのだろうな、とそんなことを思った。