描画
描画 ああ、いい天気だな、と牧場は窓の外へと視線を遣り、晴天の空を仰ぐ。
6月の梅雨の時期と言うのに今日は朝から珍しく晴れており、グラウンドを使用する部活動生たちも日頃の鬱憤を晴らすかのように各々、競技に打ち込み汗を流している。
そんな中、一際、ここ1階の美術室からグラウンドを眺めている牧場春彦の目を引くのが野球部の星飛雄馬であった。
普段から牧場はひとり、こうして放課後になると美術室にやって来ては野球部の彼をスケッチブックに鉛筆で描画していく。
生来の運動音痴で体育のある日にはどうか雨よ降ってくれと思っていた牧場であったが、星飛雄馬という少年が青雲に入学してきてからはその考えを改めたばかりではなく、梅雨に入った今となってはどうか晴れてくれとさえ思っていた。
常々、野球ほど面白いスポーツはなく、いつか野球を題材にした少年漫画を描きたい、と昼夜を問わずネタを練り、絵を描いていた牧場の目の前に現れたのが星飛雄馬であった。
あの日、偶然、帰りがけに見かけたのがまさしく、漫画の中から飛び出してきたような少年で──お世辞にも体格がいい方とは言えない彼が投げる球が恐るべき球速を誇り、そればかりでなく針の穴を通すようなコントロールの正確さ。
野球を小馬鹿にしていたPTA会長の息子で、応援団団長を務めていた伴宙太を柔道から野球へと転向させた彼。
その野球に対する真摯な態度と、一生懸命な姿に牧場は胸を打たれ、それから星飛雄馬の虜のようなものであった。
「何を、描いてるんですか」
ぼうっと鉛筆片手に空を仰いでいた牧場を背後から呼ぶ声があって、彼はドキッ!と体を跳ねさせ、固まる。
「あ、っ、あっ!ほ、星飛雄馬くん!」
恐る恐る振り返ってみれば、後ろに立っていたのはたった今までグラウンドで伴のミットの中に球を投げ込んでいたその人で、牧場は座っていた椅子から転げ落ちらんばかりに驚いた。
「名前……?」
帽子を取りつつ、飛雄馬は自分の名字を呼んだ牧場の顔を怪訝そうに見つめる。
「あ、あっ!その、きみ、有名だから!青雲野球部の星、飛雄馬!あの伴宙太をやっつけた、って」
しどろもどろになりつつ言葉を紡いだ牧場を飛雄馬はその顔に険しい表情を浮かべつつ、その瞳に映した。
え?と牧場は一瞬にして表情の変わった飛雄馬の顔を見上げ、何かまずいことを言ってしまっただろうか、と視線を外し、ゆっくりと泳がせる。
「おれは伴をやっつけた訳じゃない。彼に野球の厳しさを教えただけだ。訂正してください」
強い口調でたしなめられ、牧場は自分の発言があまりに浮薄であったことを恥じ、固く目を閉じると、申し訳ない……と謝罪の言葉を口にした。
「…………いえ。おれも、ついカッとなってしまってすみません……伴が今までやってきたことは確かに褒められたことじゃないかもしれない。でも、おれは懲らしめるためにとか、野球部に寄り付かせないようになんてつもりでやったわけじゃない。それだけは、わかってください」
「…………」
出会って間もないであろう友人・伴宙太のために星飛雄馬という心優しい少年はまるで自分のことのように怒ってくれる。
なんと羨ましいことだろう、と牧場は思う。
漫画家になるために、と机に齧りつき、絵を描いているだけでは何も得られやしない、とわかっているのに、引っ込み思案なぼくは他者との交流をなるべく避けてきた。
絵さえ描ければ、と思っていたが、決してそうではないのだ。様々な経験をし、情報を得、初めてそこで良い漫画というものが描けるのだ──。
牧場は再び、すまない……と呟いてから、それで、星くんはなぜここに?と質問を返した。
「いつか、話してみたいと思っていたから……なんて、ふふ、あなたがおれをそのスケッチブックに描いていることは知っていましたよ。学年や名前まではわからなかったが、晴れた日にはグラウンドの隅からおれたちのことを眺めていましたよね」
「あ、っ!」
今まで誰にもスケッチをしているところを咎められた経験のなかった牧場だが、憧れの星飛雄馬にそんなことを言われ、恥ずかしいやら存在を認めてもらえたことが嬉しいやらで思わず声を上げる。
「絵を描くのが、好きなんですか?」
「う、うん、まあ、描くのは、好き、かな」
声が裏返り、牧場は背中一面に緊張したせいかどっと汗をかく。
「へえ、よかったら、拝見させてください」
「ま、待った。下手だから、あまり人に見せたくはない」
「…………」
そうですか、と飛雄馬は素直に引き下がり、手にしていた帽子をかぶり直した。
「あ、そうだ、これなら……」
牧場は何を思い出したか、手にしていたスケッチブックのページを数枚めくって、現れたとある絵をビリビリとリング状の金具の位置から破った。
丁寧にスケッチブックから解き放つと牧場はそれを飛雄馬に手渡す。
「先月、夕日を背に立ってた星くんがとても綺麗だったから、スケッチして家に帰って少し色を塗ったんだ……ああ、すまない。なんだってぼくはこんな」
語り過ぎた、と自己嫌悪に陥った牧場を尻目に飛雄馬は渡された1ページに視線を落とす。
紫や青、橙を使って描かれた夕焼け空。
日の落ちかける、寂しい別れの時間。
そんな中でも一際大きく輝いているのが白いユニフォームを纏った飛雄馬であった。
「…………」
「空がね、とてもすごく綺麗で、尚且つ、星くんの姿がとても美しくて……」
「いただいて、いいんですか」
「あ、ああ!もちろんさ」
尋ねた飛雄馬に牧場が笑顔でそう返したところで、グラウンドから、おうい、星ぃ、と呼ぶ声がした。
「ちょっと、忘れ物をしたから待っていてくれ」
窓から顔を出し、飛雄馬は大きな声で叫んでから、牧場を目の前にして帽子を取り、ありがとうございます、と会釈する。
「そ、そんな……喜んでもらえたらぼくも嬉しいよ」
へらっ、と牧場は照れたような笑みを浮かべ、それでは、と美術室を去っていく飛雄馬を見送る。
「大事に、します。ふふ、嬉しいや」
「…………」
牧場は廊下を行く飛雄馬の横顔をしばらく目で追っていたが、それが見えなくなると再びグラウンドに向き直る。
飛雄馬が校舎から出て、一度、部室に戻る姿が見えて、牧場はスケッチブックの新しいページを開く。
そうして、野球部の皆と何やら話し込んでいる飛雄馬の姿を、白い画用紙に描き込み始めるのだった。