別離
別離 伴が中日へと、ジャイアンツの本拠地である東京から愛知県へと去ってしまう日、飛雄馬は荷物の片付けを行う彼を手伝いにマンションより早朝から宿舎を訪ねていた。 あの日、座談会で会ったのが最後。それきり口も利いていなければ目も合わせてはいない。
ひとつひとつ、服を、本を、雑誌の類を、細々とした雑貨たちを飛雄馬は伴に背を向けたまま箱に詰めていく。
ああ、この品は伴と一緒にあの店で買ったな、とか、伴にも見せようと思って買った野球雑誌が被ってしまって大笑いしたな、とかそんな楽しかった思い出ばかりが飛雄馬の頭をよぎる。もう、振り返れば姿の見える、高校時代より女房役を務めてくれた相手は今日限りでここから、自分のそばから去ってしまうのだ、と思うと、飛雄馬の瞳の奥からは熱いものが込み上げて来て、彼は深く鼻から息を吸った。
行くなと言えば、伴は行かないだろう。ずっとそばにいてくれるだろう。そうしておれは、あの暖かな腕に抱かれて眠ることが出来るだろう。けれども、それでは伴のためにはならない。
伴はおれのものではない。伴には伴の人生があって、おれのために尽くすことだけが彼の青春であってはならない。
分かっている、分かってはいるはずなのに、どうしてこの胸はこうもざわつくのか。行くなと言う言葉は喉元まで出掛かっている。口を開けば溢れ出してしまうに違いないのだ。
だからこそ、飛雄馬は固く口を閉ざし、作業に徹する。
そうして、荷物を詰めた箱に蓋をして紐で開かぬように縛ってから、紐を切るべく飛雄馬は背後の床に置かれていた鋏を取ろうと手を伸ばす。と、飛雄馬に背を向け荷物の整理を行っていた伴も同じことを考えていたようで、向こうから手が伸びてくる。 鋏の上で指が触れ合って、二人は思わず、あっ……と声を漏らした。
指が触れることなど今まで幾度となくあったことだし、そればかりか指同士を絡ませ握り合ったことだって数え切れぬ程だ。それなのにどうして、触れた肌はやたらに火照るのか。
しばし、視線を絡ませていたものの二人は言葉を交わすことはなく、伴が先に鋏で紐を切ると、飛雄馬にそれを手渡してくる。
飛雄馬もまた、鋏を無言で受け取った、はずだった。鋏を掴んだ飛雄馬の腕を伴は強く握ったかと思うと、引き倒さんばかりに己の方へと抱き寄せた。
振り向き様に鋏を受け取った飛雄馬は突然、強い力で引きずられたためにバランスを崩して体が半回転し、前のめりに倒れ込みそうになったところを抱き締められる。
「…………」
「…………」
普段に比べ一段と伴の腕の力が強い。どれだけおれはこの腕を待ち侘びたか。この腕に抱かれたかったか。
反射的に伴の背に腕を回しそうになるのを堪えて、飛雄馬は彼の体を突き飛ばす。 伴もそれに対し憤慨するでもなく、何故と問うてくるわけでもなく、一瞬顔をくしゃっとしかめたものの、床に落ちた鋏を飛雄馬へと差し出した。
本当にこれでいいのか。これで終わりなのか。野球の厳しさを、青春の尊さを、恋を、人を愛することを教えてくれた星と敵にならなくてはいけないのか。
おれが大リーグボール二号を打つのか。打てるのか。星の球を、このおれが。
おれは一生星についていくと、地獄の底までついていくと言った。それは星にとって重荷だったのか。迷惑だったのか。
星はいつもどこか悲しそうな顔をしていた。心の底から笑っているところを見たことがなかった。人一倍努力家で、頑張り屋で泣き虫で、自分のことよりも人のことを第一に考える優しさを持った星。
おまえは、いいや、おれは、星を失って生きていけるんじゃろうか。
ああ、行くなと、そばにいてくれと一言言ってくれ。そうすればおれは何もかも投げうって、おまえの手を取りここから逃げ出してやると言うに。
パチン!と飛雄馬の操る鋏が鳴り、紐をふたつに分かつ。飛雄馬は荷物を肩に乗せると、立ち上がり部屋を出る。伴もまた、紐で縛った本を抱えて廊下を歩む。
宿舎の出入り口付近に予め呼んでおいたタクシーのトランクに荷物を詰め、伴はその後部座席へと乗り込んだ。
飛雄馬はその始終をじっと黙ったまま見据えている。その瞳は今にも泣き出しそうに揺れていた。伴はぐっと下唇を噛み、目を閉じる。ああどうして、おまえは非情になりきれぬのか。そんな顔をするな。
「運転手さん、行ってくれ」
伴はやっとの思いで言葉を口にすると、座席に背を預け、その後は頬を涙が幾重も幾筋も伝うのも構わずボロボロと泣き続けた。飛雄馬はその場に立ちすくんだまま、タクシーが去っていくのを見守っていたが、足元の小石を拾うと、「伴!」と叫んで車の去った方角へとそれを投げる。
間もなく日が昇る。伴は去っていく。彼と共に編み出した大リーグボール二号も近い内に打たれてしまうやもしれない。
けれども、おれは一人でもやっていけると、そう思って、思い込んでいくしかない。
「伴……っ、」
飛雄馬はその頬や顎を熱い涙が伝うのを拭うことなく次第に遠く小さくなっていくタクシーを視界から消えてしまうまで、ずっと見ていた。