勉強会
勉強会 風呂にて一日の汗を流し、親友の部屋を訪ねた飛雄馬だったが、彼の姿はどこにもなく、はて、と首を傾げた。すると、少し離れた客間にて何やら笑い声がしたもので、そっちにいたのか、と微笑してから歩を進める。大方、サンダーさんと何やら話し込んでいるのだろう。英語のあまり得意ではない伴と、日本語のあまり得意ではないサンダーさんがふたりで談笑したところで意思の疎通が取れるのか甚だ疑問ではあったが、自分も人のことをとやかく言える身分ではないなと思い直し、飛雄馬は邪魔をせぬよう、そっと部屋の襖を開けた。
と、鉛筆を手にしたサンダーが帳面のようなものを座卓に広げ、ウンウン唸っているのが目に入り、飛雄馬はまたしても首を傾げる。
「おう、早かったのう」
飛雄馬を見上げた伴が微笑み、まあ、こっちに来て座れやと手をひらひらと前後に振り、入室を促すように振った。
「探したぞ、伴」
「いや、なに、サンダーさんがのう、日本語を教えてほしいと言ってきたもんでな」
「日本語を?」
飛雄馬は伴の隣に腰を下ろすと、ニコニコと笑みを浮かべるビッグ・ビル・サンダーへと視線を移してから、彼が座卓に広げているまるで子供が学ぶような簡単な平仮名の練習帳に目線を落とした。
「イエス。ワタシ、アマリ日本ノ言葉得意ジャアリマセン。ヒューマ・ホシヤミスター・伴トモット仲良クナリタイ。ナノデ、日本ノ言葉、学ブコトニシマシタ」
「はあ……」
じゅうぶん、話せていると思うが、と飛雄馬は思ったものの、興を削いでしまっては悪いと喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。
「その代わりと言ってはなんじゃが、わしも英語を教えてもらっとるんじゃい。今後、わしも会社を背負って世界中を飛び回るつもりじゃからのう」
「それで、少しは話せるようになったのか」
「ん、ん〜アイ・アム伴宙太。アイカムフロムジャパン。どうじゃい」
そうまで言うと伴は腕組みしふんぞり返ると、ガハハと大声で笑った。座卓の対面ではグッドデース!ミスター・伴とサンダーが親指を立て、片目を閉じる。
「…………」
中高校生の英語の授業じゃあるまいし、世界中を飛び回るつもりであるなら、もっと実用性のある英語を学んだらいいだろうにと飛雄馬は苦笑し、日本語くらいなら自分も教えられますよ、とサンダーの顔を見遣った。
「それなら星よ、わしが風呂に入ってくる間はサンダーさんの相手は頼んだぞい」
「ああ、そのつもりだ。ゆっくりしてこい」
またあとで、サンダーさんと伴が言い残し、客間を出て行くのを見送り、飛雄馬はちょっと見せてくださいと座卓の上に広げられたままの連絡帳を手に取って、ぱらぱらと数ページをめくる。
帳面いっぱいに鉛筆で辿々しく平仮名にて単語が綴られており、飛雄馬は、いつから始めたんですか?と尋ねた。
「ツイ、エエト、Two days ago.ノー、日本語デハ二日前ノコトヲ何ト言イマスカ」
「二日前は一昨日、です」
「オトトイ……オトトイ……」
練習帳の空いた余白にサンダーはオトトイと繰り返しながら平仮名で文字を綴るが、【あ】が【お】になっており、飛雄馬は、それは、【お】です、と彼の書いた文字を訂正する。
「Oh my god! Sorry!」
「…………」
野球に関しては言うことなしの天才、超人のような彼だが、日本語の勉強となると子供のようだなと飛雄馬は頬を緩め、おれも平仮名を書き始めた頃はよく書き間違えましたとサンダーをフォローした。
「日本語ハ奥ガ深イデス。覚エルノトテモ大変」
「おれからしてみれば英語が難しいですよ。もっと勉強しておけばよかったと今になってひしひしと感じます」
「ヒシヒシ?」
きょとんと目を丸くしたサンダーを前に、飛雄馬は、ええと、としばし思案し、強く感じます、と己の言葉を訂正する。
「strongly」
「ふふ……」
「ワタシ、日本大好キ。一度行ッテミタカッタカラ呼ンデモラエテトテモ嬉シイ」
「それは光栄です。伴に感謝ですね」
「コーエイ?」
「サンダーさんにそう言ってもらえて嬉しいです」
「Happy! ワタシトヒューマ、トテモハッピー」
屈託なく微笑むサンダーにつられ、飛雄馬も微笑んでから、いい人だな、と改めて対面に座る彼の人柄についてそう、評価する。
彼が呼ばれたのは野球のコーチを行うためだと言うのに、こうして自分たちともっと仲良くなりたいと日本の言葉を学習しようとしてくれている。
伴はいいコーチを呼んでくれたなと改めてそんなことを思った。
「ふう、いい湯じゃったわい」
そんな物思いに耽っていた飛雄馬だったが、部屋の襖が勢い良く開かれたことで我に返り、顔を出した親友の名を呼ぶ。
「ゆっくりできたか」
「おう、お陰様でのう。スタディはそれくらいにしえサンダーさんもどうじゃい」
「イエス。ソウサセテモライマース。アリガトウゴザイマス」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「これくらいいつでもお安い御用じゃい」
「オ安イ?」
「あ、ええと、朝飯前じゃい」
サンダーが首を傾げ、伴が慌てて易しい日本語を紡いだ。
「a piece of cake!」
「ぴ、ぴーす?」
今度は伴がきょとんとする番で、ウフフと何やら笑みを浮かべながら去っていくサンダーを飛雄馬とふたり見送り、彼が部屋を出てから、今のはどういう意味じゃい?と首を傾げた。
「ケーキと言わなかったか」
「ピース、ケーキ……ケーキが食いたいってことかのう」
「まさか、唐突すぎないか」
「朝飯前のお返しになぜピースとケーキが出てくるのかさっぱり分からんわい」
「伴よ、しっかりしてくれよ。高校まで通ったんだろう」
「え、英語の授業なんぞろくに聞いちょらんから今こうして困っとるわけで……確か英和辞典がどこかに……」
ぶつぶつとぼやきながら伴は再び部屋を出て行き、飛雄馬はやれやれとひとり残された客間にて、サンダーの帳面を暇潰しがてら、先程と同じようにぱらぱらとめくる。と、【星】のページに、ほしひゆうまと鉛筆で書かれた自分の名前を発見し、くすりと微笑むと、帳面を閉じ、気長に辞典を探す伴の帰りを待つことにしたのだった。