朝寝坊
朝寝坊 黒電話のコール音で飛雄馬はぼんやりと目を覚まし、うつ伏せの状態から仰向けになると、寝室に射し込む朝日の眩しさに眉をひそめた。
もう朝か。起きなければ。体が重い。
電話はいつまで鳴り続くのだろうか。いい加減諦めてくれたら…………うとうとと再び、微睡みかけた飛雄馬だったが、まさか、と、妙な胸騒ぎを感じたためにベッドから跳ね起き、枕元の目覚まし時計を引ったくる。
時計が指す時刻は朝のミーティングの時間をとっくに過ぎており、飛雄馬は己の体から血の気が引いていくのを感じつつも、今尚けたたましく鳴り響く電話に出るために急ぎ寝室を飛び出した。
まずい、寝坊した──おれとしたことが──。
歯噛みしつつ、飛雄馬は受話器を取ると、受話口を耳に当て、もしもし星ですが、と送話口に向かい名乗った。
『…………星か』
受話口から聞こえた低い声に、飛雄馬は目を見開くと、受話器を握る指に力を込める。
「川上、監督……」
震える声で巨人軍の偉大なる監督・川上哲治の名を呼ぶのがやっとで、飛雄馬は一瞬、押し黙ったあと、申し訳ありません……と小さく謝罪の言葉を口にした。
『まずは自宅にいるようで安心したが、どうした、今朝のミーティングにも顔を出さんで』
「それが……そのう」
『言えんのか』
「…………」
『皆には体調不良で休むと連絡があったと伝えている。星よ、お前は少し休め。ここのところいつにも増して根を詰め過ぎとるように感じるぞ』
「し、しかし……っ、すみません、わけは話します。ですから休めなどと……」
『試合に出さんとは言っとらん。今日一日休めと言ったんだ。言い訳はせんでいい。明日は遅れるな』
「…………」
『切るぞ』
「はっ、はい……あの、申し訳ありませんでした」
言うと、飛雄馬は電話口の向こうにいるであろう川上に対し、深々と頭を下げる。
『…………』
ブツッ、と回線が切断され、その後に続く無機質な不通音を飛雄馬はしばらく聞いていたが、そっと受話器を元の位置に戻し、大きな溜息を吐く。
広いファミリー向けマンションの一室。
脱ぎ捨てた衣服が部屋中に散乱しており、ゴミ箱も溢れ返っている。食事だけは外で摂っているから生ゴミの類はないものの、読みかけの雑誌類が床に放置されており、ひどい有様である。
ねえちゃんがいた頃は、いや、伴がいてくれた頃までは、こんなことはなかったのに。
飛雄馬はふっ、と小さく吹き出すと、部屋の片付けをするか、と部屋中に散らばっているシャツやスラックス、靴下の類をひとつひとつ拾ってはそのまま洗濯機に放り込み、洗濯を始める。
洗濯機が回っている最中に雑誌類を片付け、部屋に掃除機をかけてからゴミを纏める。
居住空間は何とか見られるようになったが、水回りの汚染がひどい。
どこから手を付けるべきか。
そんなことを考えている内に、洗濯が終わり、飛雄馬は濡れた洗濯物を二層式洗濯機の脱水層に入れ、スイッチを入れる。
今日は天気もいいようだし、布団も干すとするか。
「…………」
気分を、入れ替えなければ。
もう、誰もこの部屋にはおれ以外、帰ってはこない。
ひとりでこの広い部屋は持て余してしまう。
どこかしこにねえちゃんや伴の面影が見てとれて、その度に胸が痛む。
飛雄馬は廊下や寝室にも掃除機をかけてから、脱水の終わった洗濯物を手にベランダへと出る。
陽の光が眩しく、目に滲みる。
球場で見るそれとはまた違った太陽の姿を仰ぎ見ながら、飛雄馬は洗濯物をベランダに設置した物干し竿へと干していく。夕方には乾いてくれるだろうか。
なんて、感傷に浸っている場合ではない。
やるべきことは山のように残っている。
まずは台所の水回りを片付けてから飛雄馬はトイレ、洗面所、風呂と済ませ、汗だくになった体をそのままシャワーで流すと、パジャマと下着、それにシーツ類を洗濯機に放り込んだ。
そうして、着替えを済ませ、布団を先程の洗濯物同様にベランダに干してからようやくそこで一息つく。
気付けば、起きてから何も口にしていないことに気付いて、飛雄馬は冷蔵庫を開けるが、食べ物の類は何一つとして入っていない。
洗濯が終わったら街に出るか。
しかし、先輩方におれは体調不良で欠席したと話したと監督はおっしゃっていたか。
下手に出歩くと監督の顔を潰してしまいかねない。
何か店屋物でも取るか。
いや……一日くらい何も食べなくとも死にはしないだろう。
リビングのソファーに体を預け、肘置きを枕に飛雄馬は部屋の天井を仰ぐ。下界の喧騒とは無縁の高層階。
窓を閉め切っていれば街行く人々の声、車の音など何一つここまでは聞こえてこない。
明日からまた試合が始まる。
こんな状態では球団皆に迷惑がかかる。
自分の道をそれぞれに歩み始めた伴とねえちゃんにいつまでも囚われていてはいけない。
それにしても、伴はまだしも、ねえちゃんは今どこにいるんだろう。
連日、おれと伴のことを面白おかしく取り上げる新聞を見て呆れているに違いない。
おれは皆が思うほど強くない。
瞳が涙でじわりと潤む前に飛雄馬は目を閉じ、鼻を啜る。するとちょうど洗濯が終わったようで、飛雄馬は涙を拭うと洗面所へと向かい、洗濯物を脱水層に押し込み、スイッチを入れた。
ゴトゴトと我が身を揺らし、脱水を始める洗濯機を飛雄馬はしばし見つめていたが、コーヒーでも飲むかとその足で台所に向かうとやかんで湯を沸かす。
と、めったに鳴ることのない黒電話が今日もまた家主を呼び出すように鳴り出し、飛雄馬は火を止めると、受話器を耳に当てた。
『おお、星か。体調の方はどうだ?』
「長島さん」
おそるおそる電話に出た飛雄馬だったが、受話器の向こうから聞こえた弾んだ声に、自分もまた顔を綻ばせる。
『ここ最近、顔色がよくなかったからな。ワンちゃんと心配してたんだよ』
そう言って笑う、巨人軍三塁手──長島茂雄の楽しげな声に、飛雄馬は再び自分の瞳が潤むのを感じつつ、ありがとうございます、とその場で頭を下げた。
「明日までには治します」
『うん、無理するなよ。おれたちは体が資本なんだからな。お姉さんにも──おっと』
「肝に、銘じます、長島さん」
『す、すまん……ついうっかり』
「いえ、気にはしていません。長島さんも、奥様やお子さんと今日一日ゆっくりとお過ごしください」
『ああ……ありがとう、星』
「こちらの台詞です。長島さん自ら電話をくださるなんて嬉しいです……」
『なに、こんなんでよければいつでもしてやるぞ』
ハハハハ、と声を上げて笑う長島につられ、飛雄馬も笑いながら、また明日な、の声に、はい、と返事をしてから受話器を置く。
すると見計らったかなようなタイミングで脱水が終わって、飛雄馬は洗濯した一式をベランダに干すと、ソファーにどっと倒れ込む。
さっき起きたというのに、もう眠くて堪らない。
寝坊したのも、夜なかなか寝つけないからだ。
夜、暗い部屋でひとり、ベッドに横たわっていると嫌なことばかり考えて眠れなくなってしまう。
片付けもろくにできず、腹もほとんど減ることなく、眠ることすらままならない。
痩せてしまっては、ますます球質が軽くなるばかりだというのに。
「…………」
起きたら洗濯物を取り込んで、やかんに火をつけよう。そうして、コーヒーを飲もう。
飛雄馬は大きく息を吸うと、鼻からゆっくりと息を吐き、まぶたを徐々に重くしていく睡魔に身を委ねつつも、目元に浮いた涙を腕でそっと覆い隠した。