朝のひととき
朝のひととき 早朝のランニングやトレーニングを終え、伴の屋敷にて朝食を摂っていた飛雄馬たちの許へ、今起きたばかりであろう家主の彼が浴衣姿のまま顔を出す。
「Good morning!ミスター・伴」
バターをたっぷり塗ったトーストを齧り、ハムエッグを頬張っていたビッグ・ビル・サンダーが一番に彼に声をかけ、陽気にウインクなどしてみせた。
「グッ、モーニン……と言いたいところじゃが、二日酔いで頭が痛くてのう」
「飲み過ぎは体に毒だと言ったじゃありませんか」
「うう……わかった、わかったから朝から大きな声を出さんでくれい」
寝坊した伴を窘めたのは、彼を古くから知る家政婦であった。そんな彼女の声が二日酔いの頭に響くのか、伴は頭を押さえながらふらふらと頼りなく、テーブルの空いた席へと着いた。
「大丈夫か。昨日もずいぶん帰りが遅かったみたいだが」
「接待続きでのう。嫌になるわい……おばさん、すまんが粥を作ってくれんか」
「はい」
「フツカヨイ、トハ何デスカ?」
きょとんと大きな目を更に見開いたサンダーが尋ねる。ええと、と飛雄馬はしばし考え、昨日飲んだお酒が残っている状態です、と答える。
「oh,hangover.ソレハ辛イデース」
合点がいったかサンダーは両手を広げ、左右に首を振ると、ワタシニモ経験ガアリマース、と続けた。
「仕事は行けそうか」
味噌汁の最後の一口を飲み干し、今度は飛雄馬が伴に訊く。
「午後からの出勤にさせてもらうわい。今日は予定が何も入っとらんからのう」
「そうか、養生しろよ」
言うと飛雄馬は席を立つ。
「ほ、星、そのう」
台所を去ろうとした伴に呼び止められ、飛雄馬は歩みを止めると、視線を泳がせる彼を見遣った。
「まだ何か用か」
「朝飯を食べる間くらいいいじゃろ、そばにいてくれたって」
「フフ、sorry,気ガ付キマセンデシタ。ワタシハ席ヲ外シマース。アトハフタリデゴユックリ」
「坊っちゃん、あんまり星さんを困らせないでくださいよ」
塩で軽く味をつけ、梅干しをひとつ乗せた粥を椀にうつした家政婦──おばさんは食器類を洗い桶に浸けてから濡れた手を腰に巻いたエプロンで拭うと、サンダーと共に飛雄馬と伴を残し、台所を出て行った。
「…………」
「うん、うまい」
飛雄馬は、誤解を解くべくサンダーをすぐさま追おうとも考えたが、下手に弁解すると余計こじれるに違いないと思いとどまって、おばさんの作ってくれた梅粥に舌鼓を打つ伴を前に大きな溜息を吐く。
「接待も仕事のうちとは言え、もう少し節制できないのか。先週も飲み過ぎて頭が痛いと言って仕事を休んだじゃないか」
「わしに言わんでほしいぞい。取引先のお偉方がそういう店が好きなんじゃから」
「サンダーさんがまたおれたちのことをからかうぞ」
「言わせとくとええじゃろ。別にわしは困らんわい」
まあ座れや、と伴はポットから急須に湯を注ぎ入れつつ、飛雄馬を手招く。
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題なんじゃい。わしとの仲をからかわれるのはそんなに嫌か」
「そうじゃないが……」
「じゃあなんじゃい」
「頭が痛いんじゃなかったのか」
ふと、飛雄馬は伴がべらべらと饒舌に語るのに気付き、自分で淹れた茶を啜る彼を見据える。
「星もたまには座ってゆっくり茶を飲む時間があってもええじゃろ」
「…………」
伴のやつ、話をはぐらかして……と飛雄馬はこちらを見上げ、ニッコリと微笑む伴を睨んだが、すぐにその笑顔につられ小さく吹き出すと、彼の対面の席へと着いた。
「例の覆面特訓の具合はどうじゃ。うまくやれとるか」
「ふふ、ゆっくり座ってと言ったのは伴なのに口を開けばやっぱりその話か。サンダーさんのおかげでだいぶいいさ。自己流のフォームが身についていたから直すのに少し手こずったが」
「あ、う、そ、そりゃよかったわい。最近は仕事でなかなか顔を出せんかったからのう」
しまった、と言うような顔をして言い淀む伴を前に、飛雄馬は再び顔を綻ばせる。
「…………」
「伴?」
ふいに伴が粥を食べる手を止めたことを察し、飛雄馬は、じっとこちらを見遣る、ふたつの瞳を見つめ返した。
「いや、やっと表情が元の星らしくなってきたなと思ってのう。再会した頃はピリピリしとって、別人のようじゃったから……」
「……そうか?」
席を立ち、飛雄馬は食器棚から湯呑みをふたつ、取り出すとそれぞれに茶を注ぐ。湯を入れてからしばらく経っていたせいか、普段より緑が濃く出てしまっている。そのひとつを伴の前に置いてやり、飛雄馬は再び席に着く。
「今までどこで何をしとったか訊くつもりもないが、よくそんな左腕で生きてこられたのう」
「なに、遠投はできんが日常生活に支障はないさ。寒い日にはたまに痛むこともあるが、温めればすぐにそれも引く」
「まったく、心配ばかりさせおって」
「それはこっちの台詞だ、伴」
「…………」
「…………」
しばし、ふたり見つめ合って、どちらともなく視線を外すと飛雄馬は湯呑みの中身を啜り、伴は粥を啜る。
確かに、こうしてゆっくり湯呑みを傾けるのも久しぶりかもしれない、と飛雄馬は思う。
日雇い仕事の際も、周りの人々とは素性を知られるのを避けるためろくに口も利かず、手にした給金で労働者向けの安宿に止まる日々。
立ち寄った地方ではこの性格が災いし、人助けのようなものをすることはあったが、その縁も土地を離れてしまえばそれまでであった。
時折、彼ら、彼女らは元気であろうかと考えることもあったが、素の自分を曝け出すことができたのは、間違いなく伴と再会してからであろう。
伴の行動は褒められたものではないが、こうして温かな茶を嗜む余裕があってもいい。
「親父には星の尻ばかり追っかけよってと言われるが、わしは星のそばにいるのが好きなんじゃい」
「親父さんは早く伴にも世帯を持ってもらって、安心したいんだろう。親心だ、それも」
「いらん世話じゃい、まったく親父ときたら」
「ふふ、ありがたくはあるが、伴がおれのせいでいつまでもひとりと言うのは気が引ける」
「わしは星がおればええんじゃい。嫁なんかもらう気はない」
「早く食べたらどうだ。冷えてしまうぞ」
「じ、じゃからそのう。星さえよければ……」
「よければ?」
何の照れ隠しなのか、急に粥を啜る速度を速めた伴を訝しみ、飛雄馬は首を傾げる。
咀嚼し、嚥下することを数回繰り返し、ようやく椀の中身を空にした伴は、一気に湯呑みの中身まで飲み干して、大きな溜息を吐いた。
「星が落ち着いてからで構わんから、わしと一緒に暮らさんか。その、ええと、今も暮らしとるとかそういう話ではなくてだな」
「……考えておく、と言いたいところだが、それから先を聞いてしまえば甘えが出てしまう。伴の胸の内に仕舞っておいてほしい。これから先、きみの考えが変わらなければ、また改めて話してくれ」
「う、う。ま、前向きに考えてはくれるんじゃな」
「まだ酔っているらしいからな。話半分に聞いておくさ」
「ばっ、馬鹿を言うんじゃないぞい、星よ。わしは本気で……」
「今はただ、目の前の目標に取り組むだけさ。先のことは考える気にならない」
「そ、そうじゃな。わしとしたことが……」
「…………」
しょんぼりと肩を落とす伴の前から、椀と湯呑みを手に取り、飛雄馬は朝食の食器類がそのままになっている洗い桶の中にそれらを落とし込む。
「す、すまん、星。わしはいつも先走ってばかりじゃい」
「いや、謝ることはない。いつも伴には迷惑をかけてばかりだからな。そう言ってもらえるのは素直に嬉しいさ」
「星のすることを迷惑だと思ったことは未だかつて一度もないぞい」
「…………」
伴が席を立ち、飛雄馬の許に歩み寄る。
飛雄馬は黙って距離を詰める彼を見守り、ふと、その顔を上げる。すると、そろりと大きな手が頬に触れ、身を屈めたらしき伴が顔を覗き込んだ。
微かに、伴の匂いに混ざってアルコールのそれが飛雄馬の鼻を突く。
「い、いくぞ、星よ」
「ばか、いちいち言わなくていい」
「す、すまん……」
しばし、間を置いてから遠慮がちに伴の唇が飛雄馬の口へと触れた。彼を受け入れるように飛雄馬がそっと唇を開くと、そこから舌が口内へと滑り込む。
「っ、……」
と、伴に押され、思わず食事を摂っていたダイニングテーブルに手を着いた飛雄馬だったが、あろうことかその天板の上に押し倒されてしまう。
一際、大きな音が辺りには響いて、飛雄馬は、よせ!と声を上げる。しかして、伴はためらうことなく飛雄馬の首筋に顔を寄せ、強引に左右へ割った足の間に身を置いた。
「ヒューマ・ホシ、ミスター伴、チョットイイデスカ」
「…………!」
どこからともなく耳に入ったサンダーの声に、伴は距離を取り、飛雄馬もまた、慌てて体を起こす。
その瞬間にサンダーは台所へと顔を出し、ニコッと微笑んだ。
「ど、どうしましたサンダーさん……」
「ワタシ、東京観光ガシタイノデスガ、日本語アマリ上手ジャナイ。時間モアマリナイ。悩ンデマース」
「…………」
「なんじゃ、そんなことお安い御用じゃい。わしの秘書ちゃんに頼むとええわい。今度の土曜なんてどうじゃい。話はつけておくぞい」
「シカシ、ヒューマノ予定ガ」
「おれのことは気にしないでくださいサンダーさん」
未だに普段より速い鼓動を刻む心臓を落ち着かせるため、飛雄馬は深呼吸を繰り返す。
危ないところであった。サンダーさんが来てくれなければ今頃……。
額に滲んだ汗を拭い、飛雄馬はしばらく伴と話し込んでいたサンダーに手招かれる形で台所から廊下へと出た。伴は台所に残ったままだ。
「ヒューマ、午後カラノ特訓ニツイテデスガ」
「はい」
よかった、気付かれてはいないようだ。心臓も落ち着きつつある。見られでもしていたら合わせる顔がない。伴ときたら、後でしっかり言い聞かせなければ。
「ヒューマ?」
「あ、すみま……sorry」
「ミスター・伴ガ気ニナル?」
「そういうわけでは」
「ワタシガ今度、ミスター・伴ヲ観光ニ連レ出スカラヒューマハユックリ体ヲ休メテクダサイ」
「サンダーさん?」
「ミスター・伴ハヒューマloveナアマリ、チョット行キ過ギルトコロアリマース。タマニハヒトリデユックリスル時間モメンタルノタメニハ必要」
「メンタル?」
「心ノ、精神的ナ面」
「…………」
そんなに、疲れて見えるのだろうか、おれは、と飛雄馬はサンダーを見上げ、おれは大丈夫ですよ、と続け、サンダーさんこそ日本に来てお疲れなのでは、と訊いた。
「ワタシ、日本大好キ。日本ニ来ラレテ嬉シイ」
「それは、よかった」
ふ、と飛雄馬は表情を緩め、お気遣いどうもありがとうございます、と頭を下げる。
「オ気遣イ?」
「心配をしてくれてありがとうございます」
「アア、心配。選手ノメンタルケアモ、コーチ大事ナ仕事」
「また後で、サンダーさん。thank you」
「ドウイタシマシテ」
屈託なく微笑んだサンダーに癒やされつつ、飛雄馬はそのまま与えられている自室へと引き返すと、再び大きな溜息を吐く。
伴のやつ、少しは反省してくれるといいんだが。世話になっている手前強くは言えない。サンダーさんも変に誤解したままのようだし、どうしたものか。
「星」
「!」
廊下と部屋とを隔てる襖の向こうから声がして、飛雄馬はぎくりと体を強張らせる。
「その、わしじゃ。伴じゃい。さっきはすまんことをした。あんなことをするつもりはなかったんじゃが」
「…………」
「わしはこれから仕事に行ってくるから、星も午後からサンダーさんと頑張るんじゃぞい」
「ああ」
「また後でな」
力なく引き返していく足音を飛雄馬はしばらく聞いていたが、勢いよく部屋を飛び出すと伴の後を追う。
「伴、待て、伴」
「星」
何事かと驚いた伴が振り返り、歩みを止めた。
「確かにさっきのことで腹も立ちはしたが、今のおれがあるのはきみのおかげだし、多少のことは目をつぶるつもりだ。でも、サンダーさんやおばさんに勘違いされるような言動は慎んでくれ」
「……ほ、星」
「それだけだ。仕事に遅れるなよ」
飛雄馬はそうとだけ言うと、来た道を戻り、自室へと引っ込む。あれが効くとも思えんが、多少は遠慮してほしいものだ。いくらこの屋敷が彼の物とは言えども。まったく、ゆっくり茶を嗜むどころか、いらん気苦労が増えてしまったな。まあ、あの強引なところに、時には助けられることもあるのだが……。
苦笑し、飛雄馬が畳の上にごろりと横になると、部屋に朗らかな陽の光が差し込む。先程、伴が台所で口にした言葉を頭の中で反芻しながら、午後からの特訓に向け、しばし体の休息を取るべく目を閉じた。