姉の話
姉の話 「寮長、すみませんが、弟を──少しお借りしてもよろしいでしょうか」
愛車のキャデラックを乗り付け、巨人軍の寮を訪れた花形は、何事かと顔を出した武宮寮長に対し、単刀直入にそう、切り出した。
「オトウト?ああ、星だな。ちょっと待っとれ。ハハハ、しかし、花形と星が義理とは言え兄弟になるなんて世の中わからんもんだなあ」
「フフ、よく、言われますよ……」
お手を煩わせてしまいすみません、と付け加えてから花形は小さく頭を下げた。
「いやいや、気にせんでええ、気にせんでええ。そんなことより星!星飛雄馬!オニイサマが直々にお迎えにいらしとるぞ!」
寮長が口にした、オニイサマ、の言葉に、寮に残っていた選手らが何だ何だと部屋から顔を出し、玄関先で佇む花形と、慌ててよそ行きの格好に着替え、自室から出てきた飛雄馬の顔を見比べる。
息せき切らしながら姿を現した飛雄馬を見るなり、花形は、そう急がずともよかったのに──と言うなり、ニッコリと微笑む。
「…………」
しかして飛雄馬は寮長に対し、変なことを言うのはよしてくださいと返すばかりで、花形の顔を見ようともしない。
それもそのはず、花形は何の連絡もせぬままに寮を訪ねたからだ。
何度屋敷を訪ねるように言っても、またの機会にと躱されるばかりで痺れを切らしたがゆえの──実力行使と言ったところか。
寮に顔を出し、寮長に話をつけてしまえば飛雄馬くんとて嫌とは言えんだろうと考えてのこと。
「ほら、伴とばかり出歩いてないでたまには兄貴の家にも遊びに行ってやれ」
「しかし……」
「しかしもヘチマもない!ほら!」
寮長に背を押され、飛雄馬が渋々外出用の靴を履くのを横目に見遣りつつ、花形はお邪魔しました、と言うなり一足先に寮の外へと出た。
相変わらず素直で助かるよ、と花形は胸中で微笑むと、その服は伴くんと買いに行ったのかね、と後ろを着いてくる飛雄馬に尋ねた。
「…………」
「そう、怒らないでくれたまえよ、飛雄馬くん。明子がきみに会うのを楽しみにしているんだ」
「ねえちゃんがおれや親父を誘うのも、花形さんが寂しい思いをさせているからじゃないのか」
「痛いところを突く。フフフ……これで子供でもできれば明子も少しは落ち着くだろうがね」
まあ、乗りたまえよ、と花形は寮の建物のすぐ近くに停めていたキャデラックの後部座席、そのドアを開け、飛雄馬を中へと促す。
すげえ、キャデラックだ、と寮の選手らが部屋の窓を開け、こちらを見下ろしつつ野次馬根性丸出しで声を張り上げているのを察し、飛雄馬が慌てて中に乗り込むのを見計らい、花形はドアを閉めた。
こうも事が幸先よく運んでくれると、些か恐ろしくもあるな、道中、気をつけねばなるまい、と苦笑し、花形自身もまた運転席に座ると、シリンダーに挿入したキーを回し、愛車のエンジンをかけた。
「飛雄馬くんは自分の甥か姪がほしいと思うかい」
「ねえちゃんがそれを望むのなら、協力するのが夫である花形さんの役目だろう」
「ぼくはきみの意見を訊いている」
等々力の屋敷に向かい、車を走らせつつ花形は飛雄馬の顔をバックミラーでちらりと盗み見る。
「それは、おれは、ねえちゃんと花形さんの子供なら歓迎するし、それに、とうちゃん、いや、親父だって孫ができるのは嬉しいんじゃないか」
明らかに飛雄馬が動揺しているのがわかって、花形はフフ、と笑みを浮かべてから、ぼくも父から跡継ぎをと急かされてはいるがね、と続ける。
「それなら……」
「しかし、ぼくは子供の存在など足枷にしかならんと思っている。花形財閥など、ぼくの代で途絶えてしまっても構わないとさえ思う」
「…………!」
「まあ、それは冗談としてもだ。人間、相性というものがある。結婚してもう数年になるが、子ができんのもぼくと明子はその相性とやらがよくないのかもしれん。男と、女の、ね」
カッ、と一瞬にして飛雄馬の頬に赤みが差したのが見て取れ、花形は目を細める。
「…………」
「なに、そう急ぐことはない。子供は天からの授かり物と言うからね。気長に待つさ」
変な話を聞かせたね、と花形は笑い飛ばし、そろそろ着くよ、と信号停車の際に後ろに座る飛雄馬を振り返った。
居心地が悪いらしく、目を伏せたままこちらを見ようともしない飛雄馬を見つめ、花形は、そう深刻に考えないでくれたまえと付け加えると、青信号を直進する。
「っ、花形さん、先日、おれはねえちゃんから最近あなたの様子がおかしいと相談を受けた。いや、ねえちゃんはおれに心配をかけまいとおれには話さなかったが、伴がそれを聞いている。あなたはねえちゃんにも知らせることなく、こそこそと一体何をしているんだ」
「…………」
そう、来たか、と花形はハンドルを握り締め、なんと答えようかしばし思案する。
きみに感化され、ぼくも球界に返り咲くべく模索している最中でね、と一瞬、馬鹿正直に打ち明けてしまおうかとも考えたが、時が来れば自ずと知れるさ、と言葉を濁した。
「ねえちゃんが心配じゃないのか?花形さんのことで思い悩んで夜も眠れず、食事も喉を通らないと聞く。あなたが何を考えているか、何をしようとしているかなんておれにはわからない。しかし、ねえちゃんを悲しませるようなことをするのなら…………」
「……するのなら、なに?」
「……ねえちゃんを解放するべきだ。おれはねえちゃんをこんな目に遭わせるためにあなたに託したわけじゃない」
「よく言ってくれるじゃないか。きみたち親子は明子に何をした?言ってみたまえ。英雄気取りで、よくそんな台詞が吐けるものだと感心するよ」
「っ…………!」
「降りたまえ。もうぼくの屋敷は目の前だ」
花形は声を荒げてすまなかったねと続け、車のエンジンを掛けたまま運転席から脱すると再び、後部座席のドアを開けた。
「…………」
「明子はいない。役員夫人の集まりに出ている。屋敷にはぼくひとりだ」
「なぜ、おれを呼んだ?」
「広い屋敷にぼくひとりでは寂しくてね。フフフ……」
飛雄馬の疑いの眼差しが花形を射抜いた。
あなたの口を吐く言葉は何ひとつ信用していないと言うのが飛雄馬の目付き、表情からありありと感じられ、花形はふ、と口角を歪める。
今のはぼくの心からの本音だが──と花形は、どうぞ、と飛雄馬を中に招き入れ、部屋の照明を付けた。
寮を訪ねたときはまだ夕日が空を橙に染めていたが、すでに日は暮れ、夜がそこまで来ている。
玄関の天井から下がる照明に明かりが灯って、辺りを煌々と照らした。
「おれでよければ話くらいは聞く。あなたがおれを呼んだのもそういう腹づもりだったのだろう」
「……半分当たり、半分外れと言ったところかな」
「半分……?」
スリッパを履き、花形は長い廊下を飛雄馬の前を歩く。後ろを距離を取りつつ着いてくる飛雄馬の気配を感じながら花形は、そう、半分さ、と彼の言葉を繰り返す。
「飛雄馬くんにひとつ、頼みたいことがあって屋敷に招いたことは事実だが、そのことが理由ではないのさ」
「……はあ」
「一度、行方をくらませていたきみと寝たことがあったね」
「…………!」
ピタリ、と花形の後ろで飛雄馬の足音が止まる。
「それからと言うもの、何をしていても飛雄馬くんのことが頭をよぎる。いいや、手に入れなければよかったのかもしれない。今になって思えばね」
「おれをからかって楽しいのか、花形さんは」
「…………」
花形は背後を振り返り、飛雄馬に詰め寄る。
弾みで廊下の一方の壁を背にした飛雄馬を追い詰め、花形は彼の背中に手を添えると、腰にかけてをそろりと撫でた。
「っ…………」
「あのまま、あの部屋に閉じ込めておけばよかったのかもしれない。明子や伴くんのことを考えるに、ね。きみさえ現れなかったらこのまま皆、飛雄馬くんのことを青春の思い出としながら、平穏に暮らしていけたに違いないだろうからね」
「花形っ、!」
こちらを睨みつけ、叫んだ飛雄馬の唇を花形は自身のそれで塞ぎ、振りかぶられた腕を掴んだ。
歯を立てられそうになると距離を取ることを繰り返し、花形は飛雄馬の唇を柔らかく啄む。
次第に腕に入る力も緩み、飛雄馬の口から漏れる吐息にも声が混ざるようになった。
「伴くんとはこういうことしたのかい」
「…………」
瞳を潤ませ、こちらを見上げてくる飛雄馬をからかい、花形はフフッ、と声を上げ、笑うと再び、目の前の唇を小さく啄む。
「お互い様じゃないか、飛雄馬くん、そうだろう」
「……伴は、違う。あれは大事な、親友だ」
「嘘はよくないね」
「うっ、嘘なんかじゃ……っ、う」
声を荒げた飛雄馬の唇を塞いで、花形は彼の口内へと舌を滑り込ませる。
脱力し、体の横で揺れている飛雄馬の両腕を花形は掴むと、自分の首へと回すように彼の体を抱き寄せた。 口の中が熱く、興奮していることを物語っている。
貪るように互いの唇を重ね、すり合わせ、舌を絡める。 飛雄馬くんの方が、積極的じゃないか──の言葉を花形は飲み込み、ここでするかい?と意地悪く尋ねた。
「…………!」
ここでようやく、我に返ったか、それとも恥ずかしさのあまりそういった行動に出たのか──飛雄馬に花形は突き飛ばされ、わざとらしくよろめいて見せる。
「さすがに、廊下はきみも嫌だろう。どこがいい」
「っ、馬鹿な、悪ふざけはよせ。今のはおれも──」
「では、選択肢をふたつ。少し距離があるが来客用の寝室、それときみの後ろの扉を開けた先にある客間。きみが選ぶといい」
「…………」
ちら、と飛雄馬の目線が後ろの扉を確認するように動いたのを花形は見た。
そうして、花形は飛雄馬の手を握ると、共にドアノブを捻り、客間の扉を開け──明かりには手を付けなかった。
そのままふたり、部屋の中央にあるゆうに人ひとりが横になれるソファーになだれ込んだ。
暗い部屋の中、聞こえるのは互いの吐息と衣擦れの音と、時折飛雄馬の口を吐く喘ぎのみだ。
まだこの闇に目は慣れていない。
だからこそ、酔えたのかもしれない。
だからこそ、この状況を享受するに至ったのかもしれない。
「っ、あ……」
汗ばんだ首筋に舌を這わせ、花形は身を埋めた彼の名を呼ぶ。触れ合う肌、絡ませあった舌以上に彼の腹の中は熱を帯びている。
気を抜けば、溶け落ちてしまいそうな、まるでこのまま取り込まれるのではないかと感じてしまうほどに。
ソファーの座面に着いた膝の位置を変え、花形は飛雄馬の中を深く貫くと、呻き声の上がった位置へと顔を寄せた。
それに縋りついてきた唇に自分のそれを押し当てて、花形は飛雄馬の奥を探るよう、腰を回す。
「ふ……っ、う」
びくん、と飛雄馬の体が跳ね、弾みで唇が離れたために花形は体を起こすと自分を受け入れ、足を左右に大きく開いている彼の曲げている膝を掴み、腰を叩きつけた。組み敷いた彼の声に嗚咽が混じっているように感じられるのは気のせいか。
あまりに自分の置かれた状況が惨めで情けないからか、それともあまりの快楽に耐えかね、気でも触れたか。
「いっ、……っ!っ、またっ……!」
「…………」
いきたくない、と涙ながらにこの行為の中止を願い出る彼の言葉を無視し、花形は飛雄馬の顔を覗き込むと、こっちを見て、と囁く。
始めた当初から閉じられたままの瞳。
おそるおそる、その双眸は暗闇の中で開かれ、花形の顔を涙に濡れた瞳に映す。
「ふぅ……うっ……っ、く」
びく、びくと再び絶頂したか体を戦慄かせ、声を上げまいと口を塞ぐ飛雄馬の中に、花形は自分の劣情を吐き出し、しばしその余韻に浸った。
「…………」
放出した体液をどろりと掻き出しつつ、花形は飛雄馬から離れると、スラックスと下着の中に自身のそれを仕舞い込み、ソファーから立ち上がる。
最中に脱ぎ捨てたジャケットを床に手を這わせ、辺りを少し撫でてから探り当てると、そのポケットから煙草を取り出し、一本を口に咥えた。
「っ……花形、さん、おれは、このことを忘れる。誰にも言わないし、……っ、全部なかったことにする」
「…………」
咳き込みつつ、飛雄馬が体を起こしたか、ソファーが軋んだような音を立てる。
「だから花形さんも、ねえちゃんと……」
「…………」
それができたら、どんなにいいだろうね。
きみは簡単に言ってくれるが──。
花形は口元に携えた煙草に火を付け、その眩しさに目を細める。
ぼくがどんなにきみを思って、どんなふうに考えているかなんて、露ほども知らんからそんな他人事のようなことをきみは言えるのだろう。
煙草の煙が目に滲みて、花形は目を閉じる。
「もう、知らなかったあの頃には、互いに戻れはしないんだよ、飛雄馬くん。きみはそう言うがね」
「…………」
ふたりの間に会話はなく、花形が吸う煙草の先に灯る赤だけが、暗い客間の中に揺らめいていたが、それもすぐ消え、あとには冷たい静寂だけが残った。