雨の下校
雨の下校 「おうい、星…………」
お前はまだ帰らんのかあ、言いかけ、伴は自分を迎えに来た国産高級車の後部座席にて口を噤む。
放課後いつものように青雲高校野球部皆で顧問の天野先生から与えられた練習メニューをこなしていたところ、急に雨に見舞われ、今日はこのまま解散となった。泥で真っ黒に汚れてしまったユニフォームやスパイクを鞄に詰め、青雲高校野球部の部員たちは正門前にずらりと連なった迎えの車にそれぞれ乗車していく。うちの息子が雨に濡れて風邪でもひいたらどうするおつもりですか、等と苦情が寄せられるのを恐れた学校側が部員の屋敷に一軒一軒、電話をして回ったのだろう。
伴もむろん、学校から連絡を受けた屋敷のお手伝いさんが正門にハイヤーを回してくれたお陰で、多少濡れはしたが、車の後部座席に無事収まることができたのである。
そして、最後のひとりとなった伴は継ぎの当てられた見るからにばばっちい傘を差し、裸足で歩く星飛雄馬を見かけたために、何気なく彼を呼んだのだった。
雨のお陰で幸いにも声は届いていない。
伴は校門を出て、自分が乗る車が向かう方向とは逆に歩いていく飛雄馬の姿を振り返る。
帰らんのか、なんておれはなんて無神経なことを訊こうとしたんだろう。星に迎えの車なんて上等なものが来るはずはなく──彼はああやって、自分の足で自宅までの道程を一歩ずつ歩いていくのだ。
青雲から遠く離れた自宅のある街まで、この雨の中誰の助けも借りずに、一歩ずつ。
おれは親父を忌々しく思っていながら、現に今も甘えてしまっている。親父の金で手配されたハイヤーに乗り、雨に濡れることもなく帰宅しようとしている。
おれは柔道が盛んな高校に行きたいと言ったのにも関わらず、青雲以外の進学は認めてくれなかった親父。
おれは親父と腹を割って話したことがなかったような気がする。
「すまん、先に帰っておれは歩いて帰っていると伝えてはもらえんか」
「はっ、えっ!?」
ハイヤーの運転手が驚きのあまり声を上ずらせたのを無視し、伴は履く革靴が濡れるのも構わず飛雄馬のもとに走り寄った。
「星!待て、待ってくれい……はぁ、はっ……」
地面に降り注ぐ雨、水溜りの中を跳ね上げつつ伴は飛雄馬に走り寄る。
綺麗に漂白され、アイロンのかけられていたシャツは雨に濡れ、泥が付着していた。
しかして伴はそんなことなどお構いなしに一緒に帰りたい、とそんなことをぼやき、傘も差さぬまま飛雄馬の隣を歩み始める。
「伴?なぜ……傘は?」
「なに、これくらいの雨どうってことないわい」
「どうって……迎えの、車」
急に伴が現れ、飛雄馬は動転したか、学校の正門前に止まったままのハイヤーを振り返る。
「おれは星の女房役ぞい。苦しみも悲しみも、そして楽しみも全部分かち合ってこそ真の女房役と言えるぞい」
「…………ばか」
ぽつりと飛雄馬が呟いた言葉も、伴には聞き取れず、雨の中ニコニコと満面の笑みを浮かべている。
それから傘を伴が持つことで、ふたり、濡れることなく飛雄馬の住む長屋に到着することができた。
その頃には辺りはすっかり暗くなってしまっている。
「傘は明日返すぞい。星、親父さんや明子さんにもよろしくな」
「ば、伴?」
「飛雄馬、おかえりなさい。雨が降って大変だったでしょう」
長屋の中にいる飛雄馬の姉・明子と顔を突き合わせるのがなんだかこっ恥ずかしくて、伴は送り届けた彼の顔を見ることなく駆け出す。
ここから自分の屋敷がある街まで歩いて一時間と言ったところか。
これで少しは、彼との距離が縮まっただろうか。
いつも、おれたち青雲野球部とは距離を置いていた星。少し離れたところで輪の中に入りたそうにこちらを見ていた星。
「…………」
明日は、晴れてくれるだろうか。
伴は飛雄馬から借り受けた傘の柄をぎゅっと掌に握り込み、厚い雲に覆われたままの鈍色をした夜空を見上げ、小さく親友の名を口にした。