雨夜の星
雨夜の星 冷たい雨が降り続いている。
そのせいで日雇いの仕事も思うように見つからず、飛雄馬はここ数日、飲まず食わずの状態で街を彷徨っていた。
恐らく、飲食店でわけを話せば皿洗いのアルバイトと引き換えに1食分をご馳走になることくらい容易いことであったろうが、今の飛雄馬にそこまで考える余裕はなかった。
道行く人も関わり合いになりたくないと言った風で足早に目も合わせず通り過ぎていく。
これが一時は後楽園球場で栄光ある巨人軍のエースを張っていた人間の末路とは、あまりに──。
飛雄馬はふふ、と苦笑すると、最後に食事を摂ったのはいつだったろうかと朦朧とする意識の中、薄い腹を撫でる。
体も冷えきり、指の感覚はほとんどない。
雨粒が地面を叩く音だけがしきりに響いている。
もうだめだ、歩けない…………。
飛雄馬はよろよろと足を前に2、3歩踏み出すとそのまま横っ面から濡れた地面へと倒れ込んだ。
ざあざあと音を立て降りしきる雨が頬を叩き、そのままアスファルトで舗装された地に滑り落ちる。
いやだ、行き倒れかしら──。
若いのに可哀想──。
そんな声を遠くに聞きつつ、飛雄馬はゆっくりと目を閉じた。


「車を、止めてくれないか」
「は?」
花形はふと、取引先で商談を終えた帰りの車の中、通りがかった街の一角で運転手に声をかけた。
虫の知らせ、とでも言うのだろうか。
花形も自分で車を運転し、ここを走ったこともある何の変哲もない平凡な街並みが並ぶ関東の某所。
降り続く雨のせいで辺りは普段よりもどんよりと薄暗く、人通りが少なく感じられる以外は何も変わっていないように見えるが、花形は運転手に車の静止を命じると、ここで待っていてくれたまえと言い残し、傘を片手に車を降りた。
「………………」
花形の傘の柄を持つ手になぜかしら力が篭もる。
丁寧に磨かれ、手入れのされた革靴や染みや皺ひとつ見当たらない三つ揃えのスーツ、そのスラックスの裾が濡れ、汚れることも厭わず花形は【その場所】に導かれるままに歩み寄った。
『どうする?警察呼ぶべきか?』
『いや、救急車だろうこの場合は』
『なに?行き倒れ?』
『どこどこ?』
ざわざわと傘を手にした人だかりができ、何やら騒然となっている街路灯の蛍光灯が消えかかり、点滅を繰り返す先に花形は歩を進め、人混みを掻き分ける。
「────!」
集まった人々が取り囲み、様子を伺う物を目の当たりにした瞬間、花形の世界からは野次馬の姿が消え、雨粒がその物の表面をしきりに叩く様だけがはっきりと瞳に映った。
飛雄馬くん!
花形は人々が遠巻きに見守る物──星飛雄馬の名を口にするや否や、上等な傘を投げ捨て、背広や髪が雨に濡れるのも構わず彼の元に走り寄る。
そうして、彼の冷たい体を抱き起こすとそのまま闇の深まる住宅街の中へと消えた。
残されたのはぽかんと立ち尽くす野次馬の姿と、放り出されたままになっている花形の傘のみで、そのうち人々も散り散りに夜の闇の中へ紛れていった。

それから待つこと10数分のうちに、急に車を止めたかと思えば、ずぶ濡れの浮浪者のごとき人間を腕に抱きかかえ現れた雇い主の姿に運転手は吃驚し、ぎょっと目を見開いたが、花形は有無を言わせず飛雄馬諸共車に乗り込む。
雇い主も誰ですかとは聞きもせず、ゾワゾワと背中に悪寒が走るような気味の悪さを誤魔化しつつ、花形の口にしたホテルへと黙って車を走らせることに専念した。
「……………」
花形はぐったりと力なく座席に身を預けている飛雄馬の青ざめた顔に視線を遣る。
一瞬、他人の空似だろうかと──いや、誰が見間違うものか、星飛雄馬の顔を。
ぼくが惹かれ続けた彼の顔をいくら年月が経とうと間違うはずがない。
それにしても、どうしてあんなところで倒れていたのか。
今現在、何をして生計を立てているのか。
興信所を使っても居場所ひとつわからなかったというのに、なぜ今頃になって。
尋ねたいことは山のようにあるが、ひとまず、花形は飛雄馬の冷えた体を暖めることが先決だとホテルに到着するなり、手伝いますと言った運転手の申し出を断り、このことは明子には内密に頼むと袖の下を渡してからフロントに耳打ちに向かった。
このホテルも花形コンツェルンの所有する建物のひとつだが、いくらその御曹司とはいえ、浮浪者と見紛うような人間のを連れ込めば騒然となるのは火を見るより明らかである。
よって花形は、従業員が使用する出入り口を使わせてもらえるようフロントに話をつけ、それから車に残していた飛雄馬を連れ、人目を避けるようにして近くの客室へと身を寄せた。
部屋の明かりをつけ、脱衣所を経て浴室に繋がる扉を開けると花形は無造作に靴を脱ぎ捨て、シャワーから湯を放出させる。
少し熱いが、飛雄馬の冷えた体を暖めるにはこれくらいが最適だと思っての判断。
服を脱がせるのも惜しいがゆえに着の身着のままの状態で浴室の床に座らせた飛雄馬の全身に湯をかけ、花形は彼の名を呼んだ。


誰だ、おれの名を呼ぶのは。
懐かしい、どこかで聞いたような気がする。
伴?とうちゃん?川上監督……?
あたたかい、ここは、どこだ、おれは、雨に打たれながら街中を彷徨って……。
体を打つのは雨に似ているが、冷たくはない。
ならばこれは、一体。
「!」
はっ!と飛雄馬は顔を上げ、それから顔面に容赦なく降り注ぐシャワーの散水から顔を背けた。
「気がついたかね」
「…………」
この独特な言葉遣いをする男をおれはひとりしか知らない。
飛雄馬は、花形、さん……と己にシャワーの湯を浴びせる男の名を呼ぶと、そこで初めて自身がどこかホテルの一室、それも浴室の中にいることを知る。
しかも、目の前の彼、花形もずぶ濡れの格好でそこに立っている。
「理由は後でいい。とりあえず体を暖めてから出てきたまえ」
「し、しかし、あなたも」
「ぼくと一緒にシャワーを浴びる気がきみにはあるのかい。行方しれずになっていた数年の間に大胆になったものだ」
「…………!」
「ふふ、ごゆっくり」
口ごもり、視線を泳がせた飛雄馬をよそに花形は壁に設置された金具にシャワーをかけると、そのまま浴室の外に出た。
飛雄馬は未だ状況がよく掴めないままであったが、花形を待たせるわけにはいかないと濡れ、肌に貼り付いた衣服を脱ぎ捨て、備え付けのシャンプー等で髪や体を流すと浴室を後にした。
すると、タオルとなにやら浴衣を模したような洋風の着物が脱衣所には置いてあり、飛雄馬はどうしようか迷ったもののそれを身に纏い、花形の待つ居室へと足を踏み出した。
すると、ちょうど濡れたシャツを脱いでいる花形と待ち合わせ、ギクリと身を強張らせたが、早かったねの声に、いえ、と言葉を濁す。
「濡れた服はクリーニングに出すといい。明日の朝には綺麗になっているさ」
「……そこまで世話になるわけには」
「あんなところで死ぬ気だったのか、きみは」
「…………」
沈黙がふたりの間で流れたが、それを打破するかのように飛雄馬の腹が空腹に耐え兼ね、鳴った。
「フフ、ゆっくり、わけは聞こう。まさかその格好で逃げる気も起こすまい。食事はベッドの枕元にある電話がフロントに繋がる。ルームサービスを頼むといい」
花形は濡れた服を脱衣所に持ち込み、水気を絞ってから、ホテルマンに取りに来るように頼んでいるからきみの分も出したまえとそれらを飛雄馬に手渡した。
飛雄馬はためらったものの、花形の言うとおりこの格好では逃げることもできんなとここはひとまず、彼の言葉に甘えることにし、浴室に置いたままにしていた衣服を絞り、彼と入れ替わりに脱衣所を出る。
「…………」
改めて、飛雄馬は己が身を置くホテルの一室を見渡す。
花形が入れたか室内には暖房が効いており快適である。
引かれたカーテンの向こうは恐らく窓であろうが、今は開ける気も起きない。
壁には何やら絵画のようなものが飾ってあり、ベッドは現役時代に遠征や寮で使っていたひとり用のものよりだいぶ大きなものが広い部屋の中に鎮座している。
なぜ花形はおれをここに、そう考えた矢先に腹が再び鳴り、飛雄馬は辺りをしばし見渡してからベッドの枕元にあった電話を見つけた。
受話器を取り、耳に当てると受話口から上品な女性の声がして、飛雄馬はあたふたと取り乱したが、花形の言っていたルームサービスの詳細を尋ね、軽めの食事とオレンジジュースをと彼女に伝えた。
そうして受話器を置いてすぐ、部屋のチャイムが鳴らされ、飛雄馬はこれまたあたふたと扉の方に向かい、顔を出したホテルマンに申し訳なさそうに濡れた衣服を手渡す。
彼は嫌な顔ひとつせずそれらを受け取ると、にこやかな笑顔を見せ廊下を引き返して行った。
「…………」
ひとまず、落ち着いただろうか、と思ったところで飛雄馬はそこでふっと気が抜けたか、視界がぐるりと回る感覚を覚え、床に膝をつく。
ああ、そうか、おれは空腹に耐え兼ね、街中で彷徨っているうちに倒れたのだ──。
それがまさか花形に見つかろうなどとは、おれも悪運が強い──。
苦笑し、飛雄馬が立ち上がろうとすると、脱衣所の扉が開く音がし、飛雄馬くん!と声が聞こえた。
「心配、しないでくれ。ちょっとふらついただけだ」
「……ゆっくり、休みたまえ。何も心配しなくていい。明子にも伴くんにも話すつもりはない」
「ふ、ふ……花形さんもずいぶん人が変わった。昔のあなたなら有無を言わさず皆を呼んだだろう」
飛雄馬は歩み寄り、ガウン姿で腕を貸そうとしてきた花形の手を避け、やっとのことで立ち上がると近くにあった椅子に腰を下ろした。
「きみにも事情があろうからね」
「帰らなくていいんですか。ねえちゃんが、待っているのでは」
「……飛雄馬くんが気にすることではない」
花形がぽつりと溢すと、部屋の扉が叩かれ、飛雄馬が頼んだ軽食を手にしたホテルマンが顔を覗かせた。
それを受け取り、花形は飛雄馬の座る椅子の近く、灰皿の乗ったテーブルの上にそれらを置くと、彼もまたベッドの枕元に置かれた電話でルームサービスを頼んだ。
飛雄馬はその様子を見守りつつ、食べたまえと目配せしてきた花形に小さく頭を下げてからコップの中を満たすオレンジジュースに口をつける。
柑橘の酸味が空きっ腹に響いて、それらが体の隅々まで行き渡るような感覚を飛雄馬は覚える。
喉を鳴らし、一息にオレンジジュースを飲み干すと飛雄馬は注文したサンドイッチに手をつけた。
久しぶりに人間らしい食事をしたというのに味などほとんどわからないまま飛雄馬はサンドイッチを平らげ、ほうっと安堵の溜息を漏らした。
「足りないなら他にも頼みたまえ。遠慮することはない」
「いや、もう、十分だ……ありがたい」
言いつつ、飛雄馬は急激に胃に物が入り、血糖値が上がったことで訪れた眠気に苛まれる。
花形もそれに気づいたか、眠るといいとベッドに横になることを勧めた。
飛雄馬はしばらく、大丈夫だと彼の勧めを断っていたが、そのうちどうにも抗いがたい睡魔に襲われ、ベッドにふらふらと誘われるがままに膝をつき、その中に潜り込んだ。
昔からの知り合いに会えたことで気が緩んだのも手伝い、飛雄馬はそのままぐっすりと寝入った。


花形は再び、部屋を訪ねてきた彼からワインの瓶とグラスを受け取ると、飛雄馬の腰かけていた椅子に座り、瓶の栓を抜く。
そうして、ワインを注いだグラスを口にすると、ゆっくり息を吐いた。
さて、飛雄馬くんにはああ言ったが、ぼく自身この格好で帰るわけにもいかず、かと言って彼と同じベッドで眠るわけにもいくまい。
部屋をもうひとつ借りることにしようか。
雨に濡れはしたものの、ケースに入れていた煙草は無事だったようで、花形はその中の1本を口に咥えると、先程持ってきてもらったマッチを擦り、先に火をつける。
赤く火の点った煙草の先からゆらゆらと紫煙が立ち昇り、部屋の空気に紛れる。
「………………」
飛雄馬くんは、明日になればまたどこかに消えてしまうのだろう。
それを繋ぎ留めておく権利も資格もぼくにはなく、今こうして同じ部屋の中で彼が眠っていること自体、奇跡に近い。
部屋が静かになれば未だ降り続く雨の音が室内にも入ってくる。
何をしていても、ぼくはきみの面影を探してしまう。
灰を灰皿に指で弾き落とし、花形は煙草を咥える。
何度、隣で眠る彼女が、きみだったらと思ったことだろう。
ふとした時に彼女にきみの面影を見る。
フフッ、と花形は煙草を口に携えたまま笑みを溢すと足を組み、テーブルを人差し指、その指先でトントンと一定のリズムを刻みつつ叩いた。
「う……う、っ……い……いたい、腕が……」
その声に花形は席を立ち、煙草を灰皿に置くと、うなされる飛雄馬の元に駆け寄り、その顔を覗き込む。
額には汗が滲み、しきりにうわ言を口にしている彼の名を花形は呼ぶが、起きる気配は見せず、腕が痛いと何度も繰り返す。
「飛雄馬くん!」
叫んで、花形は飛雄馬の頬を数回、叩いた。
ううっ、と何度か呻いてからようやく目を覚ましたか、飛雄馬は目を開けると、ハッ!と息を飲んでから顔を覗き込んでいる花形に視線を遣る。
「あ……っ、花形……!」
体を跳ね起こし、飛雄馬はそのまま謝罪の言葉を口にした。
「腕が、未だに痛むのかね」
「……ふふ、こうした、寒い日には引き攣るような感覚を覚える。あれから何年も経つのに」
布団の上に出した左腕を右手でさすり、飛雄馬はふふ、と再び笑い声を漏らす。
「その腕で日雇いの仕事ができるのかね。戻ってきたまえ。そうすればうちの会社でしかるべきポストに──」
「断る。薄情なようだが、今日会ったことも忘れてほしい。誰にも言わんと言ったのは花形さんだろう。助けてもらったことは感謝している。だが、それとこれとは話が別だ。おれはおれの道を行き、あなたはねえちゃんと共にあなたの道を歩むべきだ」
「…………」
「雨が止まないな」
飛雄馬はポツリ、とそんな言葉を口にし、それから花形に今の時刻を尋ねた。
「間もなく2時を迎える。夜明けにはまだ早い。もう少し眠りたまえ」
「あなたは寝ないのか」
「……隣に部屋を借りる。心配はいらんよ」
相変わらずだな、きみはと花形が微笑んだところに飛雄馬は、ベッドがこんなに広いのに他に部屋を借りる必要はないだろう、とそんな台詞を吐く。
テーブルにつき、ようやく咥えた煙草を危うく取り落としそうになるのを花形はすんでで堪え、ひと口、紫煙を肺に入れてから灰皿で火を消した。
「…………」
「おかしな、ことを言っているつもりはないが、こんなに広いベッドで男ふたりが寝たところで窮屈でもあるまい。何か問題でもあるのか」
「きみが許すのならそうさせてもらおう。いいのかね」
「むしろこんなに広いベッドにひとりで眠るのは心許ない。そっちの方がありがたいくらいだ」
「…………」
花形は飛雄馬に枕元の明かりをつけるように言い、それから部屋の蛍光灯を消すと、ベッドに乗り上げる。
ぼんやりと薄明かりに照らされた飛雄馬の顔を見遣りつつ、花形は危うく妙な気を起こしかけるが、それを理性で押し留め、彼の隣に枕を並べた。
隣とは言えども、広いベッドの上の端と端で互いの距離はだいぶ開いている。


「…………」
隣りに寝てはもらったものの、何を話していいのかわからず、飛雄馬は高い天井を見上げたまま瞬きを繰り返す。
眠気はどうやらしばらく訪れてはくれなさそうである。
目を閉じれば雨音がやたらに響いてくるし、かと言って目を開けているとどんどん目が冴えていってしまう。
それでも、誰かが隣にいる、という久方ぶりに感じる他人の存在感に安心するのも事実だ。
「ワインを」
「は!?」
ギクッ、と飛雄馬はふいに花形が発した言葉に身を跳ねさせ、ドキドキと鳴る心臓の鼓動を抑えるべく胸に手を遣る。
「ワインを、開けたままになっている。栓をしてきてもいいかね」
「はあ……」
そんなこと、黙ってしたらいいじゃないか、と飛雄馬は思ったものの、途中で誘って悪かったな、それとも実はベッドを抜け出る口実なのか、と花形がそろそろと室内を歩く足音に耳を澄ませつつ目を閉じる。
なんの気なしに同じベッドで寝たらいいとは言ったが、花形だっていい気はしないだろう。
誰が好きこのんで男と同じベッドで寝たいと言うのだろう。
寒い外界から暖かな部屋を案内され、食事まで摂らせてくれたことで少し気が緩んだのかもしれぬ。
もうとっとと寝てしまうべきだと飛雄馬が寝返りを打とうとした刹那、ぎしっ、とベッドが軋んだ。
「…………!」
まるでベッドに誰かが乗り上げたような、そんな重みを体の近くで感じた飛雄馬の顔、その唇に、ふと花形が顔を寄せ、そっと己のそれを押し当てる。
驚き、体を強張らせた飛雄馬の唇に花形は再び口づけ、ちゅっと音を立てた。
「飛雄馬くん、今夜は冷える。雪になるかもしれん。そこでだ、きみの熱をぼくにくれないか」
「おれの、熱……っ、ふ」
何を言い出すのかいきなり、と飛雄馬が怪訝な表情を浮かべた瞬間、花形は再び彼の唇を捕らえる。
そうして、開いた上下の唇の隙間を縫うようにして、飛雄馬の口内へ舌を挿入させた。
口の中を這い回る花形の舌の熱さとその滑らかな動きに飛雄馬は悶え、身をよじる。
抵抗するべく伸ばした手に指を絡められ、その動きを封じられつつ口内を弄ばれる。
雨足が、一段とひどくなってきたようで飛雄馬はその音をどこか遠くに聞いた。
「ん、ん……っ……ぅ」
仰け反った体を押さえ込まれ、上ずった飛雄馬の顔を追うようにして花形は布団を剥ぐと、身を乗り出しつつ彼の上へと跨る。
そうして、唇を離すと、飛雄馬の薄く汗の滲む首筋に顔を寄せ、花形はそこを吸い上げた。
「あ、ぁっ!」
思わず口をついた高い声に飛雄馬はかあっ、と頬を染め、己の手を握る花形の手の甲に爪を食い込ませる。
すると花形もまた、飛雄馬の首筋に軽く歯を立て、思わず彼が手に込めた力を緩めることになった。
「風邪を、ひくよりはマシだろう」
「っ…………」
花形は片手を離すと、自由になった手で飛雄馬の内股を弄る。
むろん、互いに下着などは穿いておらず、ガウンの合わせの中に手を差し入れれば、直に触れるのは下着ではなく素肌である。
ぞくっ、と飛雄馬の肌が粟立ち、弄られる場所のすぐ近くがじわじわと熱を持ちつつあるのを嫌でも自覚した。
部屋の暖房のせいか頭の芯がぼうっと溶けるような感覚を飛雄馬は覚え、ちゅっと顎下を吸われたことで、うっ、とくぐもった声を上げる。
そのうちに、花形の手が内股からその上、首をもたげつつあるそこに触れ、飛雄馬は顔をしかめた。
「…………」
「っ、やめてくれ……花形、っ、あぁ」
触れられた男根からとろっ、と先走りが溢れた感触に飛雄馬は腰を揺らし、目を強く閉じると奥歯を食い縛った。
初めは触れるだけだった花形の手が男根を握り、それをしごいて、鈴口から溢れる先走りを指先で弄び始める。
飛雄馬の腹の奥が切なく疼いて、体ががくがくと震える。
これは寒さによるものではないことくらい、自分がいちばん良く、わかっている。
どうにかして、逃げ出さなければ。
そう思うのに、下半身が熱く、切なく蕩けるような快感を与えられ、身動きが取れない。
嫌だと、頭は拒絶するのに。
「あ、っ………い、……く」
とぷっ、と花形の手を汚すよう、飛雄馬は射精し、鈴口から脈動に合わせ白濁を放出する。
歯を食い縛り、声を殺す飛雄馬の唇を啄み、花形は汚れていない手で彼の片足、その膝を立たせると射精を終えたばかりの男根の下、尻の窄まりにこんどは白濁を受け止めた指を這わせた。
「ここの経験は?」
「っ……っ、ん」
訊かれ、飛雄馬は間髪入れず中に滑り込んできた指を締め付ける。
「答えない、ときたか。へえ、言いたくないことがあるのかね」
指をゆっくり、腹の中へ忍ばせつつ花形が煽った。
内壁を指が擦り、そこを時折、押し上げながら奥に進んでくる。
そうして、到達した先、飛雄馬が反応を変えた箇所を関節で曲げた指先でくすぐって、花形は再び彼の唇を優しく啄んだ。
「は……ぁ、っ……」
背中を弓なりに反らして、飛雄馬は花形から顔を背ける。
ゆるゆると与えられる快感が全身を痺れさせ、1度は射精した飛雄馬の男根をまたしても立ち上がらせた。
すると花形は指を2本に増やし、今度は奥を擦るというより入り口を解すべく、浅い箇所を責めにかかる。
「ふ………う、ぅっ」
抜けるか抜けぬかの位置を指が行き来し、飛雄馬の男根は完全に立ち上がった。
と、花形は指を抜き、飛雄馬のもう一方の足も大きく開かせると彼の尻にその腰を充てがうよう、身を寄せる。
そうして、ガウンの合わせから取り出したそれを飛雄馬の尻に押し当てた。
これにギクッと身を強張らせたのは他ならぬ飛雄馬であり、明かりのあまり届かぬ下半身の方で朧気にしか見えぬその姿、とは言えども尻に押し付けられた熱にこれから起こることを嫌でも想像する。
ごく、と緊張に耐え兼ね、喉が上下に動いた。
こんなことなら、同じベッドで寝ようなんて言わなければ──そもそも、あの口付けを受け入れなければ、こんなことには──。
今更、何を考え、後悔したとて遅いのだが。
すると、指で慣らしたそこに花形が押し入ってくる。
喉が引き攣り、悲鳴が口から漏れた。
「い、っ……花形ぁっ……」
「嫌なら、やめようか」
試すような声が上から降ってきて、飛雄馬は反らし、花形の眼下に晒す喉をごくりと鳴らす。
「やめ、っ……ん、ぁ、ああっ!」
飛雄馬が息を吐いた刹那、花形はすべてを腹の中に埋め込んできて、逃げぬよう、その腰を捕まえた。
一息に奥を責められ、飛雄馬の頭の中が一瞬にして白に塗り替えられる。
何度も、何度も繋がったそこから押し寄せる快楽の波に息せき切らし、慣れるべくがくがくと身を戦慄かせ、耐える飛雄馬の苦労など露知らず、花形はゆっくり、腰を振った。
「っ────あ……!」
ようやく慣れつつあった飛雄馬の体を上書きするように花形は新たな快楽を与えてくる。
何の遠慮もためらいもなく、首筋を舐め上げ、胸の突起に吸い付いてくるその刺激すべてが飛雄馬を絶頂へと昇りつめらせていく。
もはや夢なのか、現実かさえもわからないまま、飛雄馬は絶頂を迎え、花形の腕に縋る。
だと言うのに、花形はまだ足りぬと言わんばかりに腰を使い、中を掻き乱していく。
もしかして、これは地獄に落ちた自分が見た夢なのかもしれぬ。
飛雄馬がふと、ぼんやりとした頭でそんなことを思ったと同時に腹の中でドクン、と何かが弾けたような感覚があって、そのまま意識を手放すことになった。

それから、しばらくののちに飛雄馬が目を覚ますと、部屋の窓に引かれたカーテンの隙間からは朝日が差し込むのが見え、雨が上がったことを彼に知らせる。
「…………」
共に部屋に泊まった彼の姿は既になく、飛雄馬はふと、振り返ったベッドの枕元に綺麗に畳んで置かれた己の衣服と、その上に置かれていた何やら煙草の箱ほどのサイズの長方形の紙に気が付く。
飛雄馬はその紙に書かれた手書きの文字を目で追うと、一瞬、握り潰そうと掌に握り込む。
が、すぐに手を緩め、ぐっと唇を引き結ぶと、己の衣服に腕を通すべく、ガウンを床に脱ぎ捨てた。
それより少し前、一足先にホテルを後にした花形は、会社に向かうタクシーの中で運転手に彼の現役時代の活躍を知る阪神ファンから饒舌に語られるのを流しつつ、手の甲に残る飛雄馬の爪の食い込んだ痕を指先でなぞりつつ、窓の外、晴天の空の眩しさに無意識に顔をしかめた。
あのまま、あの部屋に閉じ込めておけたらどんなに良かったことだろう、と、そんなことを考えながら……。