雨景色
雨景色 雨か、と深夜、飛雄馬は屋敷の瓦屋根に降り注ぐ雨の音に目を覚ますと、布団から這い出るなり暗い部屋の中で窓と隣接する障子を開けた。
普段なら日本庭園造りの庭が月明かりに照らされ、なんとも風情のある光景がそこには広がっているのだが、今宵はその自慢の庭も雨に烟り、ぼんやりと霞がかかったようになっている。
明日のサンダーさんとの特訓は無理そうだな、雨が上がったところでグラウンドが濡れてしまっているだろう。それとも雨が上がるようなら早めに起きて、土の整備をしようか。
伴が声を掛け、集めてくれた二軍の選手らは申し訳ないが、と頭を下げれば手伝ってくれるだろうか。
天気ばかりはどうしょうもないな、と窓の外を眉間に皺を寄せつつ眺めていると、ふいに背後で襖が開く音がして飛雄馬はハッ、とそちらを振り返った。
「明日もこの調子のようだぞい」
「伴」
襖を開け、ぬっと顔を覗かせたのは飛雄馬が居候する屋敷の主・伴宙太である。
彼もまた眠れぬのか、寝間着代わりの浴衣姿の出で立ちで部屋の中に足を踏み入れると、後ろ手で襖を閉めつつ、飛雄馬との距離を詰めた。
「グラウンドも使えんだろうしのう。明日はゆっくり休養を取る日としてはどうじゃ」
「うん……そうだな」
飛雄馬は言うと、障子を閉めてから布団へと戻り、それを伝えに来たのか?と続けた。
「この雨じゃ眠れんじゃろうと思うてな。それに星は放っとくとこの雨でも外に出て行ってしまいそうじゃからな」
「ふふ、さすが伴だな。きみが訪ねて来なければ雨の中、おれは日課の早朝ランニングに出かけていただろう」
「肩を冷やすのはよくないぞい。体を壊す」
「しかし、伴。おれには時間が──」
「焦っても何にもならんのは星が一番よく知っとることじゃろう。ここに来てから練習三昧でろくに休んどらんじゃないか」
「…………」
飛雄馬は無言のまま、布団の中へと潜り込む。
雨の音がやたらに耳につくのは、伴に小言を言われたせいだろうか。
おれがこうしている間にも長島さんはひとり苦しんでいるのだと考えると、おちおち休むこともできない。 早くあの人の力になりたい。
伴が言っていることはわかる。けれど、おれには時間がない。
「わしは朝食の時間までここに居座るぞい」
伴は言うと、飛雄馬の布団の横に座り込み、あぐらをかくなり腕を組む。
「眠らんとまた遅刻するぞ」
そんな親友の姿を心配し、飛雄馬はそんなことを尋ねた。伴は極端すぎるというか、後先考えず突っ走るところがあるのは相変わらずのようで、飛雄馬は彼に背を向けるように寝返りを打った。
「いい。仕事なんかより星の体のほうが大事じゃ。それにわしのことを思うてくれちょるのなら、黙って言うことを聞いてくれい」
「……わかった。言うとおりにしよう」
「うむ。男に二言はないな」
「ああ」
しばしの沈黙。
雨がひどくなったか、部屋の中は先程より暗く淀んでいる。それはふたりの間に流れる雰囲気のせいもあるだろうか。
「へーっくし!」
突然、伴が大きなくしゃみをし、飛雄馬は布団の中でギクッ!と体を跳ねさせた。
「うう、雨のせいか冷えるわい」
「一緒に寝るか」
「おう、そうさせてもら──えっ!?」
飛雄馬は体を起こし、掛け布団をめくると伴をその中に誘った。
先程まで堂々としていた伴の様子が妙におかしくなったようで、飛雄馬は首を傾げると再び、伴、と呼ぶ。
「う、うんにゃ。いい。入らん。ここでいい」
「伴が風邪をひくぞ」
「わ、わしは風邪なんぞひかん」
「また馬鹿なことを……子供か」
「こっ、子供じゃないわい!子供じゃないからこそ、そのっ……あのっ」
「…………」
まごまごと闇の中でもたつく伴を見上げ、飛雄馬はふっ、と微笑むと、雨は口実でそのために来たんだろうと彼をからかった。
「なっ、馬鹿にするでないわい!そんなわけ……」
「じゃあ早くしてくれ」
「…………」
伴は飛雄馬の眠る布団の隣に体を横たえると、ふう、と一度大きく息を吐いた。
「どうした」
「いや、昔、寮でよくこうしてふたり同じ布団で寝とったなあ、と」
「あの頃はベッドだったから伴の重みで壊れやしないかと気が気じゃなかったぞ」
しみじみと語る伴に飛雄馬は顔を綻ばせ、照れ隠しからか冗談を口にする。
「わ、わしは、星が眠れんと言うからわざわざじゃなあ」
「ふふふ……」
「なんで笑うんじゃ」
「いや、まさか伴とまたこうして笑って話ができるとは思ってもみなかったからな」
「…………」
ふたりの脳裏に浮かぶは、例のあの試合のことだろう。伴が見事大リーグボール三号をを打ち果たしたと時同じくして、飛雄馬の左腕も破局を迎えたあの日。
あれきりふたりは言葉を交わすこともなく、飛雄馬は五年もの間行方をくらましていたし、伴も日々の会社勤めに忙殺されていた。
あの日の絶望を思い返してみれば、今こうしてひとつ屋根の下で寝食を共にしていることが奇跡のようである。
「なんて、雨のせいか感傷的になってしまったな。ふふ、すまん。さっさと寝よう」
飛雄馬は位置のずれてしまった枕を頭の下に引き直すと、そのまま目を閉じる。
しかし、布団の中に変に熱が篭ったような感触があって、再び伴に背を向けた。
「ほ、星、そのっ……」
「……やっぱりそのために来たんじゃないか」
「ち、違うわい。寒いから、もう少しこっちに寄れと言いたかったんじゃ」
嘘が下手だな、伴は、と思いはしたものの、飛雄馬は素直に隣に眠る親友のそばに身を寄せ、目を閉じる。
こうしてみると、雨の音も心地よく感じられるから不思議だ。伴が近くにいてくれるからだろうか。
この大きな厚い体がそばにあると妙に落ち着く。
「星」
「…………」
「寝とるのか」
「…………」
「誰がなんと言おうとも、わしやサンダーさんは星の味方じゃからな。精一杯頑張るんじゃぞい」
飛雄馬は寝た振りを決め込み、口を閉していたが、まさか伴の口を吐いたのが自分を励ますそれであったことに驚いたと同時に、じわりと閉じたまぶたの奥に涙を滲ませる。
いつものように人肌恋しくなり、部屋を訪ねてきたとばかり思っていたが、反省すべきは自分自身だったようだ。
「雨が降るのう。まったく嫌んなるわい」
ぶつぶつと伴は文句を口にしていたが、その内に大きないびきをかいて眠ってしまった。
飛雄馬は彼を起こさぬよう、そっと体を起こすと、隣で眠る大きな体に布団を掛けてやってから元の位置に横たわる。
布団の中が伴の匂いに満ちていて、その懐かしい香りに思わず微笑みを浮かべながら飛雄馬は自身も寝入るために目を閉じた。