悪夢
悪夢 「星、っ……星、星!」
うわ言のように呟いて、伴はハッ!と目を開けると勢いのままに体を起こす。ひどく寝汗をかいている。心臓はバクバクといやに早鐘を打っているし、肌の表面は汗が冷え、妙に冷たいのに対し体の芯は嫌に生暖かい。
「どうした。変な夢でも見たか」
畳に座ったまま飛雄馬は隣で目をしきりに瞬かせる伴の顔を見つめ、くっくっと喉を鳴らした。
「ほ、ほし」
「夢に、おれが現れでもしたか」
伴はくすくすと笑みを溢す飛雄馬の顔をしばらく眺めていたが、ふいに辺りをきょろきょろと見回してから、自分の頬を指で抓った。
「伴?」
今の今まで笑っていた飛雄馬だったが、伴がいきなりそう言った妙な行動を取ったために訝しげな表情を浮かべ眉間に皺を寄せる。
伴宙太が、ビッグ・ビル・サンダーを遠いアメリカから呼び寄せ、星飛雄馬へのコーチを頼むようになってから数日が経ち、ようやく身振り手振りで互いの意思の疎通が何となく取れるようになってきていた。
そんなある日の晩、伴は日頃の疲れが溜まっていたせいか、彼の屋敷の部屋で三人、話をしている最中にどうやら眠ってしまったらしかった。
それもそのはず、伴は格好も背広とベストこそ脱いでいたが上はネクタイを緩めたままで、着ているシャツもスラックスも汗に濡れたせいか皺にまみれている。
「彼は、一足先に休むと帰っていったぞ」
「………夢じゃ、ないんじゃな」
「夢?」
伴は顔を振り、広い肩を上下させ大きく息を吸うと、これまた大きな声と共に息を吐く。
「星が、またどこかに一人消えていく夢を見たんじゃあ……たった一人で」
「………」
「いくら呼んでも、走って追いかけようとも一向に距離は縮まらず星は振り返りもせず、どんどん離れていく、そんな恐ろしい夢じゃあ」
「フフ、大事な話の最中に寝るような男からは誰だって離れたくなると思うがな」
「あ、う………」
肩を落とし、伴はしゅんとその大柄の体を縮こめた。
「……冗談だ。ここ数日、ちゃんと寝ていないんだろう。おれのためにコーチの手配までしてくれた上に、お前は今や親父さんの会社の重役だ。あの頃のように、野球一筋と言うわけにはいかん」
「む……」
図星を突かれ、伴は口を噤む。
「もう、おれはどこにも行きはしないさ」
「妬けるのう。いくら長島さん率いる巨人のためとは言え、星の口からそうはっきり言われると」
「それは伴の早合点が過ぎるぞ。おれはどこにも行かん、と言っただけで、長島さんのため、巨人のためとは一言も口にしていない」
「………本当じゃな?」
「フフ……」
含蓄有りげに微笑んだ飛雄馬の体を伴は腕を挙げ、その胸に掻き抱いた。伴の汗で冷えた肌の表面にゆっくりと飛雄馬の体温が染み渡って行く。
「わしがこの五年間、どんな気持ちじゃったか知らんだろう。毎日、嫌な夢ばかり見ていた。もう二度と会えんのではないかと」
「お前には、迷惑ばかり掛けてしまうな」
「迷惑なんぞどんどん掛けたらええ。この古女房、星のためなら出来ることなら何でもしてやるわい。ワッハッハ」
「………」
飛雄馬から体を離し、伴は拳でどん、と己の胸を叩くと声を上げ笑ってみせた。
「伴、目を閉じろ」
「目?フフ、星にそう言われるとあの魔球の秘密特訓を思い出すのう」
伴が言ったのは、かの大リーグボール一号の練習を多摩川練習場で行った際の目隠し特訓のことである。
飛雄馬が打者のバットの芯目掛け正確に投げ抜くために、彼は伴に視界を遮断しろ、と命じたのだった。そうして今、伴は飛雄馬に言われるがままに目を閉じ、ニンマリと微笑む。
「バットはないが、ええんか、の……っ、」
口を開き、冗談を飛ばしかけた伴の唇に何やら温かく柔らかいものが触れた。
「ほ、し」
それが飛雄馬の唇だと伴がようやく気付いたときには彼の口内には既に飛雄馬の舌が滑り込んでいた。
舌の表面のざらつきを絡ませあって、飛雄馬は伴の首筋に腕を回す。お互いの唇同士を軽く擦り合わせ、飛雄馬は伴の上唇をそっと食んでいたかと思うと、一度唇を離して熱い吐息を漏らした。
「に、にゃにをするんじゃ星、きさま」
「せめてもの礼、と言ったらお前は、怒るか」
額を合わせ、鼻先を触れ合わせたまま飛雄馬は訊く。
「れっ、礼なんぞいらん!!わしは星が巨人に無事返り咲いてくれればええ!それだけじゃい!!」
「………フフ、お前は変わらんな」
「いっ、いきなり抱き着かれたら誰だって取り乱すわい」
「……ゆっくり眠るといい。また明日、頼むぞ」
言うと、飛雄馬は伴の首に回していた腕を離し、立ち上がる。
「………星?」
「礼なんぞいらんと言ったのは伴だぞ」
飛雄馬は部屋を出て行き際、そんな捨て台詞を吐くと廊下と部屋とを区切る障子を閉めた。
「ほっ、星ぃっ!」
慌てて立ち上がり、伴は障子を開け彼の後を追ったが、飛雄馬は板張りの廊下を振り返りもせず彼に宛てがわれた部屋までの道のりを一人歩いて行ってしまう。
伴はその後ろ姿をしばし呆然と見つめていたが口付けの最中からとうに立ち上がってしまっていた己の下腹部に視線を落とすと、はあ、と長い溜息を漏らした。
このまま寝たら今度は違う悪夢を見そうじゃわい、とひとりごちて伴は障子を閉めると、ネクタイを緩めつつ再び畳の上に腰を下ろす。
そうして、星が無事巨人軍入団を果たし、その活躍を目の当たりにすることが出来た、その暁にはきっと……とそんなことを考えつつ、にやにやと嬉しそうに顔を綻ばせたのだった。