紫陽花
紫陽花 「また雨か。天気予報もここのところ外れてばかりじゃのう」
学校帰りの道中、傘を片手に飛雄馬の隣を歩く伴がぶつぶつとそんな台詞を口にする。
「朝は晴れてたから今日こそはと思ったんだが、なかなかうまくいかないものだな」
「室内練習ばかりで気が滅入るわい。やっぱり球に触ってこそじゃあ」
「ふふ。いっぱしの口を利くようになったじゃないか。球に触るのももちろんだが、体がしっかり出来ていないと話にならん。まあ、柔道をやっていたきみにしてみればつまらんのも無理はないか」
ははは、と飛雄馬は声を出して笑うと、ふと、道端に咲いていた紫陽花の花に目を留めた。
今まで共に歩いていた飛雄馬が突然に歩みを止めたもので伴はぎょっと目を丸くすると、彼もまた立ち止まる。
「なんじゃあ?忘れ物でもしたんかのう」
「紫陽花が、綺麗に咲いているなと思ったんだ」
「紫陽花?」
飛雄馬の口から突如飛び出した『アジサイ』の言葉に伴は声を裏返らせた。
野球一辺倒とばかり思っていた星の意外な一面を見たなと伴はその大きな瞳を幾度となく瞬かせる。
「ああ。紫陽花の花は土がアルカリ性だと赤になり、酸性だと青になる。つまり、あそこに咲いている紫陽花の下にある土はアルカリ性ということがわかる」
「ふ、ふーん。なるほど……サンセイ……アルカリセイ……聞いたことがあるような、ないような……」
聞いたにしろ、どこで聞いたんだっけと伴が間抜け面を晒しながら考えていると、飛雄馬がまたしても口を開く。
「とうちゃんの受け売りさ。おれの頭の中にある知識はほとんどが全部、とうちゃんに教えてもらったものだ」
「あ、う……」
また、親父さんの話か、と、伴はそこで口を噤む。
星はあまり自分の話をしない代わりに自分の父親の話はしきりとよく、語ってくれる。
怒ると怖いけど、世界一優しいとうちゃん。
大好きなとうちゃん。
この年になって、とうちゃん、とうちゃんと恥ずかしげもなく口にする星が羨ましくもあり、何だか可哀想にも思えて、伴は飛雄馬の父である一徹のことが話題に昇ると聞き役に徹することが多かった。
星飛雄馬という男は、家族の話はやたらと楽しそうに話してくれるが、未だかつて友達の話を語ってくれたことは一度もないのだ。
ひとりくらい、仲のいい友人がいたことだってあるだろう。共に登校したり、遊んだ友人だっていただろう。
はばかりながら、この伴宙太にだって幼い頃はそんな友達が数人は存在していた。
それなのに、星飛雄馬は一度もそんな話をしてはくれない。
その謎がついぞ解き明かされたのがつい先日のことだったか。
例によって、父親の話をし始めた飛雄馬は学校から帰るとすぐ宿題をやるように言われており、それが終わると即座に野球の練習が始まると語ってくれた。
周りの同級生らが年相応に仲睦まじく遊んでいる姿を尻目に、来る日も来る日も球を投げ続け、父の後を追って走った、と。
子供のやりたいことをのびのびとやらせてやるのが親の務めではないかと伴はその時、思ったのだが、父のことを語る星の目がどこか嬉しそうでもあり、はたまた寂しげな色も孕んでいて、何も言えなかった。
うちの親父も大概おかしな奴だと思っていたが、口応えできるだけまだマシなのかもしれないとさえ伴が思ってしまうほど、飛雄馬が語る父親の話は強烈で衝撃的であった。
「傘だって、今朝、とうちゃんが持っていくように言ってくれなかったら今頃雨に降られていただろう」
「っ、確かに、星が語ってくれた知識というのは親父さんの受け売りかもしれんが、それを今、おれに語ってくれたのは星の意思じゃろう。今こうして、一緒に帰っていることだって星が選んだ道じゃあ。だから、その、自信を持て。親父さんがどうとかそういうのはいちいち言う必要はないと思うぞい」
「…………伴!」
しとしとと雨粒がふたりの掲げる傘の表面を叩く。
「おれは、星とは出会うべくして出会ったと思っちょる。確かに結びつけてくれたのは親父さんかもしれん。じゃが、それはきっかけにしか過ぎんと思うんじゃあ」
「きっ、かけ……」
飛雄馬の言葉に伴は深く頷く。
「おれは星だからこそバッテリーを組みたいと思った。共に野球をやりたいと思った。さっきの紫陽花の話じゃないが、星という土壌がこの伴宙太という男の花の色を変えたんじゃあ」
「…………ふ、ふふふっ。紫陽花に絡めるにはちと強引すぎるな」
「う、うまいこと言ったと思ったんじゃが……」
まさか吹き出されるとは思いもよらず、伴は恥ずかしさからか何度も目を瞬かせ、その口元を押さえる。
「おれは、伴が生まれてはじめてできた友達なんだ。だから、きみにそんなふうに言ってもらえると嬉しいぜ」
「星……!」
「友達なんかいらん、おれにはとうちゃんと野球があればいい、なんて思っていた時期もあったが、野球はひとりじゃできんからな……ましてや、投手は捕れる捕手がいてこそだからな」
「て、照れるわい」
へへ、と伴は鼻の下を指で掻きつつ、その顔に笑みを浮かべる。
飛雄馬も釣られて笑いながら、明日こそは晴れてくれるといいな、と小さく呟く。
「こんなに雨が憎らしいと思ったのは生まれて初めてじゃい」
キッ、と伴は鈍色の空を仰ぎつつ眉根を寄せた。
「伴、おれ、きみに出会えて本当によかった」
「ん?なんじゃあ?雨で声が聞こえんわい」
先に歩き始めた飛雄馬の後を追いつつ、伴が前を行く背中に向かい声をかける。
「宿題、忘れてまた居残りなんてならないよう気をつけてくれよ」
「わ、わかっちょる!帰ったらすぐにやるわい!」
いつの間にか隣を歩きながら、ぶつくさと何やら文句を口にする伴の横顔を見上げ、飛雄馬は彼に気づかれぬよう、くすっと笑みを溢した。