逢引
逢引 待ち合わせの時間まであと十分弱。
早く着きすぎてしまったな、と飛雄馬は手首に巻いた腕時計で時間を確認する。
日高美奈から診療所で使用する包帯やガーゼの類が残り少なくなってきている。その物品を都城の街で購入したいから明日、買い物を一緒に付き合ってはもらえないか、と飛雄馬が突然、電話をもらったのが昨日の晩のこと。
待ち合わせ場所と時間を半ば一方的に告げられ、飛雄馬は驚きはしたものの、彼女から電話をもらった、という事実だけで胸がいっぱいになってしまい、夜はほとんど寝付けなかった。
朝練も夢うつつの状態であったし、食事もほとんど喉を通らぬ状況で迎えた指定時刻。
親友・伴に心配されたが、大丈夫だと返し、街に出るのならおれも付き合うと言われたのを振り払い、今ここにいる。
土地勘がないために心配のあまり早めに出てきてしまったが、案外わかりやすい場所にあり、杞憂だったな、と飛雄馬は苦笑いを浮かべた。
美奈さんは患者さんたちの相手だけじゃなく、細々とした雑用も行っているんだな、とその働きぶりには頭が下がる思いだ、と改めて彼女に対し、尊敬の念を抱いたところに、星さん?と呼ばれ、飛雄馬はハッ!と腕時計を見つめていた顔を上げる。
すると、目の前には見慣れた白衣のそれではなく、決して派手ではないが、その落ち着いた顔立ちによく似合う──首元に大きなリボンをあしらったワンピースと、黒のベストジャケットを身に纏う待ち焦がれた彼女の神々しい姿がそこにはあって、飛雄馬の呼吸は一瞬、止まった。
「………………」
「……精いっぱい、おしゃれをしてみたのだけれど、やっぱり変かしら」
「あっ、いやっ、えっ、と、その、違うんだ。美奈さんが、その、あんまり……綺麗だから」
応答がないことに不安を抱いたか、首を傾げながら問い掛けてきた美奈に対し、飛雄馬は自分の顔が急速に真っ赤に火照っていくことを感じつつ、懸命に場を取り繕う。
しまった、とんだことを口走ってしまった、と思わず口を吐いた台詞に対しても羞恥心を抱き、飛雄馬は顔中に冷や汗を浮かべた。
気分を害してしまったのではないか、せっかく、わざわざおれを誘ってくれたというのに。
けれども、おそるおそる視線を遣った彼女は、血色のいい艶々とした頬を更に染めながら、ありがとう、とはにかみ──飛雄馬もつられ、微笑んだ。
それからふたり、宮崎の街を並んで歩く。
日高美奈がお店はここからすぐ、歩いて行ける場所にあります、と告げたその横顔を、飛雄馬はじっと見つめる。
橘ルミもそれは綺麗で美しかったが、日高美奈は彼女以上に美しいかもしれない、と。
物心ついてこの方、野球漬けの毎日を送っていたおれは、高校からは男子校に進んだということもあり、異性というものを意識したことはほとんどなかったが、オズマにおれのこれまでの生き方と在り方を指摘されたことにより、断り続けてきたテレビタレントと交流を行ってみることにしたのだった。
その場で出会ったオーロラ三人娘のひとり、橘ルミ── 彼女には年相応の明るさと朗らかさがあった。
彼女の奔放さと無邪気さ、漂う女性らしい化粧品の香り、すべてが初めてのことで、おれは夢中だった。
なんの連絡もなしにマンションを訪ねてきては、共に夜の街に繰り出すこともそれはそれで楽しかった。
けれど、何かが違う、そう感じ始めていた矢先に宮崎で出会った日高美奈という女性。
おれは、自分と同い年だというのに妙に大人びており、ハッキリと物を言う彼女に、平手を食らった瞬間、魂を抜かれてしまった。
橘ルミには申し訳ないことをしたと思いつつも、おれはもう、日高美奈の存在に囚われ、寝ても覚めても彼女のことばかり考える始末だ。
化粧っ気などほとんどないというのに、その頬は血色よく艷やかで、南国生まれゆえか目鼻立ちも彫りが深くくっきりとしている。
おれが惹かれたのは彼女の内面だと思っているが、少なからず、その顔立ちも影響していることだろうとは思う──。
「星さんはどこか行ってみたいところはなくて?美奈でよければ案内しますわ」
「えっ、あっ、おれは、その、あまり土地勘もなくて……」
「……宮崎の街は気に入っていただけて?」
ふっ、と美奈の品のよい唇が笑みの形を作ったもので、飛雄馬は笑われてしまった、とまたしても顔を染める。恥ずかしい、おれはなんて小さいやつなんだ。
おれは考えてみれば野球のこと、学校で教えられたこと以外は何にも知らないのだな。
人との付き合い方も、流行りの歌も、テレビ番組も何も。だから今こうしてどうしたらいいかわからなくなっている。だからこそ、何でも知っている美奈さんに惹かれてしまっている。
「宮崎の、街はとても好きです。人も、気候もあったかくて。海沿いにはヤシの木っていうんですか、東京にはない植物が植えられていて……おれ、あ、いや、ぼくは特に釜揚げうどんが気に入りました。めん類が好きなもので…………」
ああ、またおれは馬鹿みたいなことを口走っている。
美奈さんはおれともう会ってくれないかもしれない。 こんな子供みたいな話しかできなくて恥ずかしい。
「東京からいらした星さんに、美奈の生まれ育った街や風景、そして人を好きだとおっしゃっていただけることは光栄だわ。自分のことを褒めてもらえること以上に嬉しい」
「あ…………」
飛雄馬は美奈から向けられた笑顔に、思わず泣き出してしまいそうになった。
おれの、不甲斐なさや抱いてしまった罪悪感、そんな負の感情を、この人は一瞬にして溶かしてくれる。
おれはもしかすると、この人に出会うために生まれてきたのではないかと錯覚してしまうほどに。
美奈が先に扉を開け、入店した薬局へと後を追うようにして飛雄馬も足を踏み入れた。
メモを片手に包帯やガーゼ、薬品を棚からひとつひとつ取り出す美奈の真剣な表情に、飛雄馬は胸を詰まらせる。
そうして、会計をしてくる、という彼女を見送り、飛雄馬はその場に立ち尽くす。
宮崎にいる間に、おれは何度彼女と会えるのだろう。
それどころか、また誘ってくれるかもわからぬというのに。
「星さん」
「はっ、」
名を呼ばれ、飛雄馬はいけない、また考え事をしていた──と、美奈を振り返り、終わったんですか?とぎこちなく尋ねた。
と、何やら紙袋をひとつ、星さんに、と手渡され、飛雄馬は、え?と驚きのあまり声を裏返らせる。
「投手は指先がとても大事だとお聞きしました。大したものではないけれど、使っていただけたらと思って」
「開けても、いいですか?」
飛雄馬は尋ね、目の前の彼女が頷いてくれるのを待って、紙袋を開く。
その中に入れられていたのは、小ぶりのハンドクリームの容器で、飛雄馬は弾かれたように視線を袋の中から美奈へと向ける。
「お気に召さなかったらごめんなさい。美奈と同じものです。伸びがよくてべたつかなくて気に入ってるの」
「あ、ありがとうございます。大事に、します」
飛雄馬は手にした紙袋を胸に抱き、美奈の顔を真っ直ぐに見つめると、力強く言い放つ。
「余計なおせっかいね。ふふ、星さんに嫌われてしまうわね」
「きっ、嫌いに、なんて…………」
入ってきたときと同じように扉を開け、店の外へと出る美奈を追い、飛雄馬もまた、歩道へと飛び出す。
「今日はお付き合いありがとう、星さん。いつも買い出しはひとりぼっちで寂しかったから楽しかったわ」
「おれでよければいつでもご一緒しますよ」
「不思議な人、初めて会った気がしないわ」
「えっ、」
美奈の口から突如として紡がれた言葉に、飛雄馬の心臓が変に高鳴る。
「昔からの知り合いみたい。東京と宮崎、遠く離れているのに」
「おれと美奈さんの遠い遠いご先祖がもしかすると知り合いだったのかもしれませんね」
「うふふ……」
「…………」
「それを運命と、言うのかもしれないわ」
構わず歩き続ける美奈の後ろで、飛雄馬はピタリと歩みを止めた。日が暮れかけ、辺りには夜の匂いが漂い始めている。
「美奈さ…………」
「美奈は、ここから診療所に帰りますわ。星さんがお泊まりになっているホテルはあと少し行くと大通りに出ます。そこからは看板が見えます」
「診療所まで送ります。日も暮れかけているし、女性の、ひとりは、危険です」
「…………大丈夫。星さん、美奈は土地勘のないあなたの方が心配だわ。日があるうちにお帰りになって」
「でも……」
「また、診療所にいらしてください。よっこちゃんも星さんに会えるのを楽しみにしています」
「…………」
こちらを一度も見ずに言う美奈を前にこれ以上追及できるはずもなく、飛雄馬は買い物袋を抱え、去っていく彼女の姿を目で追う。
胸に抱いた紙袋は恐ろしいほどに軽く、頼りない。
美奈さんに、見合う男に、人間になりたいものだ、と飛雄馬はしばらくその場に立ち止まっていたが、日が完全に落ちる前にホテルに戻るべく、ゆっくりと歩みを再開させた。