5月
5月
青雲高校からの帰路、隣を歩いていた星飛雄馬の姿が見えなくなり、伴はなんじゃあ?と素っ頓狂な声を上げると背後を振り返った。
すると、とある屋敷の庭に高々と掲げられた鯉のぼりをじっと見上げる飛雄馬の姿があって、伴はそういえばもうすぐ端午の節句じゃのう、と笑みを浮かべつつ彼の許へ歩み寄る。
風に吹かれ、吹き流しから順に三匹の鯉が青空を悠々と泳ぐ姿は圧巻で伴もまた飛雄馬と同じように頭上を見上げた。
「伴の家でも、小さい頃は鯉のぼりを掲げたんだろう」
「ん、ま、まぁな。親父が験を担ぐタイプでな」
貧乏長屋住まいの飛雄馬にそう言われ、伴は咳払いをしつつ言葉を濁す。
親父が大枚を叩いた特注だという大きな五月人形と共に、鼻を垂らした自分の写真が幼少期の思い出としてアルバムに残されている。
柏餅をたらふく食べ、しばらくはあんこなど見たくもなかったな、と伴は子供の頃を思い出し、目を細めた。
「ふふ、羨ましい話だ。うちでは新聞を折った兜と鯉のぼりが泳いでいた。しかし、考えてみれば歌の歌詞にもあるが、掲げられた三匹の鯉のぼりに母親の姿はないんだな」
「ふむ、真鯉と緋鯉に子鯉で父と姉、弟と言ったところか。星の家族構成そのものじゃのう」
「ああ、そう思って眺めていた」
くす、と飛雄馬は笑みを溢してから行こうかと歩み始める。
「おうい、星よ。待ってくれえ。まったく急に立ち止まったり歩き出したり忙しいやつじゃのう」
「ぼうっとしてるから置いて行かれるんだろう」
「一言多いぞ、こいつう」
握った拳で拳骨を食らわせようとする伴を躱し、飛雄馬が声を上げて笑う。
ずいぶん、明るい表情をするようになったな、と伴は駆け出した飛雄馬の後を追いつつ、出会ってからこれまでのことを回想する。
最初は生意気なちびすけだと、入学させて痛めつけてやろうとばかり考えていたが、星の野球に対する真摯な態度を連日目の当たりにし、投げる球を体に受け続け、ついには捕球したときから彼の見方はもちろん、おれの生きる世界もがらりと変わった。
貧乏なことは継ぎを当てた学生服姿を見たときからわかっていたが、親しくなるにつれぽつりぽつりと語る星の生い立ちの辛く悲しいことと言ったらかける言葉が見つからなかったのを覚えている。
おれが鼻を垂らし、遊び呆けていたような年頃から野球のイロハを叩き込まれていたと言うのだから。
友人と遊ぶことも許されず、昼夜を問わず球を放ることだけを強制されてきた。
すべてを諦めたかのような、どこか達観したような雰囲気を纏った星。寂しそうな表情を浮かべ、どこか遠くを見ていた星。
そんな星が、最近はよく笑うようになった。
おれのおかげ──と考えるのは自惚れが過ぎるかもしれんが、年相応に笑顔を見せる星にほっとしたのも事実だ。
「伴、また明日」
伴はいつも飛雄馬の自宅がある町のタバコ屋前まで青雲高校から彼を見送りに来ていたが、いつの間にかそんなところにまで来ていたらしい。
飛雄馬が手を振り、自宅の方へと駆けていく。
「おう。また明日な、星よう」
大声で親友の名を叫び、伴もまた手を振る。
飛雄馬は自宅に向かう道の最初の角を曲がるまで伴に手を振り続け、ついには見えなくなった。
また明日、か。
伴は飛雄馬の言葉を反芻し、自作の歌を口ずさみながら自宅のある方向へと歩み始める。
自宅が近づくにつれ、鯉のぼりを掲げる住宅が増え始め、道を走る車の数も増えていく。
何かと口を出し暴走する親父はいるが、何不自由ない生活を今までおれは送ってきたのだ。
恵まれている、といえばそうだろう。
伴は自宅の門構えを見上げ、戸を開けると敷地へと足を踏み入れる。
屋敷の玄関をくぐれば、家政婦がおかえりなさいませと頭を下げ、こちらが差し出した鞄を受け取る。
この日常が当たり前なのだと、普通なのだとそう思っていた。見ていた世界はあまりに狭く、そして偏見に満ち溢れていたのだ。
伴は学生鞄を手渡した家政婦に部屋に行くと伝え、廊下を進んでから自室の襖を開ける。
そのまま部屋の真ん中で、畳の上にごろりと横になって天井を見上げた。
早く明日にならないだろうか。
ここはひどく窮屈だ。早く星に会って、話を──いや、野球をしたい。
学校などつまらん場所だとばかり思っていたが、今では登校するのが楽しみになってしまっている。
人間、変わるものだな。
苦笑し、伴は畳の上で寝返りを打ってから、ふと親友の名を何気なく口にしてそっと微笑んだ。