三万
三万 昼飯時の繁忙時間を過ぎた食堂の引き戸を開け、飛雄馬はそっと中へ足を踏み入れる。
近くの公園で試合をしていた草野球チームの助っ人として得た金で、遅い昼飯を取ろうと、なんの気なしに訪れた食堂。
店内ではスーツを纏った男がひとり、テーブル席に着いており、飛雄馬のことなど意に介さぬ体でこちらに背を向け何やら黙々と喫している。
店主らしき割烹着姿の浅黒い肌の目付きの鋭い男が戸の開いた音に反応し、新聞からじろりと視線を上げ、飛雄馬を見つめると大きな溜息を吐いた。
大方、テーブル席に着いた男が退店したのち、すぐに店を閉めようと考えていたのだろう。
悪いことをしたな、と飛雄馬は思ったものの、腹の虫は宿主のことなど素知らぬ顔で何か食わせろとばかりにぐうぐうと鳴っている。
壁に貼られている日焼けしたメニューの短冊を一瞥し、飛雄馬はラーメンと焼酎、と店主に告げ、スーツを纏う彼の後ろの席へと腰を下ろした。
「…………」
店内の客からも視聴できるように天井近くに設置されたテレビを見上げ、飛雄馬は若手漫才師の初々しいやり取りに苦笑する。
そのうちに、コップに注がれた焼酎がテーブルへと置かれ、飛雄馬はそれをちびりちびりとやりながらぼんやりとテレビを眺めていた。
半分ほどコップを空けたところで丼が運ばれてきて、飛雄馬は一膳手繰った割箸を割り、麺を啜る。ナルトとメンマ、それに海苔とネギが湯気に煽られ、スープの上で揺れている。
強面の店主からは想像もつかない優しい味。
美味い、と胸中で囁いて、飛雄馬は湯気で曇ったサングラスを外すとテーブルの上へと置いた。
その刹那、飛雄馬に背を向けていた男が振り返ったのだ。食事を終え、帰るのだろう。普段であれば、一瞬、思案してからすぐに目の前に置かれた食事に意識を戻すのだが、飛雄馬は振り返った男の顔に見覚えがあった──こちらを振り返った男もそう思ったのか──彼の口元が不敵ににやりと動くのを見た──。
「…………!!」
思わず立ち上がった飛雄馬の背後でがたん!と大きな音を立て、木製の椅子が床へと倒れ込んだ。
「探したよ、星、飛雄馬くん」
足が縫い留められたかのように動かない。ここで逃げ出せば無銭飲食となってしまう──いや、そんなことを考えている場合ではない。逃げなければ。
滲み出た汗がシャツを背中に貼り付かせる。
走れ、今すぐ、ここを出て、雑踏の中に紛れてしまえばいくら彼と言えども──。
「知り合いかい」
店主の声で飛雄馬はハッ、と我に返り、羽織るコートのポケットから取り出した千円札をテーブルに叩きつけると、男に背を向け、駆け出す。
しかして、閉められた戸を開けるべく歩みを止めたところで腕を掴まれ、万事休す、袋の鼠となった。
それも握られたのは左腕──。
ぎり、と奥歯を噛み締め、飛雄馬は痛みを堪える。
指の力が少しずつ強くなっていくのがわかって、痛い、の二文字が思わず口を吐きそうになる。
「っ、っ…………」
「逃げないと、約束するかね」
耳元で悪魔が囁く。取引する気か、何故、何のために。
「誰が、っ……する……」
「二度とバットが振れなくなっても構わない、と?」
腕を掴む指の力が一層、強くなると同時に骨が軋む、嫌な音が飛雄馬の脳天を突き抜けた。
「いっ……!」
痛みに耐え兼ね声を上げた飛雄馬だったが、男の腕の力が緩むや否や店外へと転がり出る羽目となる。
地面に両手と膝を着く間に感じた背中への感触から、恐らく彼に突き飛ばされたであろうことは理解でき、飛雄馬は悔しさに唇を強く引き結んだ。
「加減は、したつもりだったんだが……」
怒りに体が震える。何故、あなたが、花形さんが、こんなところに。
立ちたまえ、といやに落ち着いた声があたりに響く。
どうすればいい、この状況を、どうすれば打破できる。
飛雄馬の額を伝う冷や汗が、地面へと滴り落ちた。
ひとつ、ふたつ。乾いた唇は言葉を紡ぐに至らない。
「…………」
そこで、飛雄馬の意識は一度途切れる。
星飛雄馬などという男は知らない、そう言いたくて開いた唇から漏れるのは吐息ばかりで声にならず、気がつくと見知らぬ天井を仰いでいた。
あっ!と声帯を震わせた己の喘ぎで飛雄馬は目の当たりにしている現状が夢の中ではなく、現実であることを悟る。
「そんなに痛かったかい」
クスクス、と笑み混じりに尋ねた男──花形を睨み、飛雄馬は、あんたの名は?と単刀直入にそう訊いた。
どうやら、ベッドでしばらく眠っていたらしい。
部屋の中は暗く、薄ぼんやりとした明かりが花形の顔を照らしているばかりで、あれからしばらくの間、日が暮れるまで気を失っていたであろうことを飛雄馬に自覚させた。
部屋はそう広くはなく、調度品の類も花形が座っている椅子と対になるテーブル、それにベッドとテレビといった質素なもので、恐らくここは花形が手配した宿所であろうことがわかる。
「ぼくの名?フフ、伴宙太と言えば、きみは満足するかね」
テーブル上に置かれたグラスが音を立てた。
解けた氷が液体の中に沈み、グラスに触れたのだろう。明かりがグラスとウイスキーの瓶を鈍く照らしている。
「…………」
「……冗談。巨人の帽子にサングラス姿の風変わりな男がここ最近、関東近郊にて草野球の助っ人をしているという噂を耳にしたのさ。それも勝たせた礼金として三万もの大金をせしめるという話を、ね」
伴宙太の名に、眉をひそめた飛雄馬を嘲笑うかのように花形は続け、まだトビタを名乗る助っ人が現れたことのない草野球チームを調べ上げ、試合があるたびに近くを張っていたとも語った。
「相当、暇なんだな。そんな調子じゃ親父さんが興した会社もあんたの代でおしまいだな」
「まだ白を切るつもりかね」
「何の話かこっちは皆目見当もつかんが、あんたの顔──どこかで見た覚えがあると思ってね。花形コンツェルンの御曹司、だろう。あんた、草野球チームを作る気はないかい。おれが特別に四番打者として──」
飛雄馬が言い終わる前に、花形は立ち上がると、互いの距離を詰めた。狭い部屋の中、距離を縮めるのは一瞬で、ベッドのマットレスが花形の体重分、沈む。
「きみが、飛雄馬くんがそれを望むのなら、すぐにでも人を集めよう。腕を治したいというのなら世界中の名医を呼び寄せることもこの花形は厭わんつもりさ」
「…………」
花形の瞳が、真っ直ぐに飛雄馬を捉えている。
視線を逸らすこともできないままに、飛雄馬は言い淀む。
「どうして、自分が星飛雄馬だと認めないのかね。草野球チームを作れと言っておきながら、承諾すればそうして押し黙る。これ以上口を開けば墓穴を掘る、そう考えてのことだろう」
距離を詰める花形から逃れるべく、飛雄馬は身をよじるが、背に触れたのは冷たい壁であった。
「よ、せっ──はなっ、……!」
苦し紛れに振りかぶった飛雄馬の左手は難なく花形に絡め取られたばかりか、追い詰められた壁を背に、唇と呼吸までをも奪われることとなる。
熱い唇に触れられ、飛雄馬の全身は粟立った。
顎を引き、逃れた距離だけ花形が迫ってくる。
すると、飛雄馬が着込むシャツの裾からそろりと指が滑り込んでくるなり肌を撫でた。
うっ、と呻いた拍子に握られた左手を引かれる形で飛雄馬はベッドへと倒れ込む。揺らいだ視界が元に戻るまでに数秒を要し、気がつけば花形に組み敷かれ、腹の上に跨られている。
「…………!」
「ずっと探していたよ、きみのことを」
「ふ、ふふ……さっきから黙って聞いていたら、あんた、その星とかいう男のことばかり口にしているようだが、何か思うところがあるのか」
「…………愛している、と言ったら?」
「な、っ──!」
一瞬の間ののち、囁かれた言葉に仰天した飛雄馬の唇に再び花形のそれが触れる。軽く、そっと押し当てられた唇はすぐに首筋の薄い皮膚に跡を残し、再び、飛雄馬の肌を熱く火照らせた。
フフッ、と笑みを漏らした花形の熱を帯びた吐息が頭の芯を痺れさせる。
「う、うっ……」
背を反らし、身をよじった飛雄馬のシャツの裾から滑り込んだ指は腹を撫で、脇腹を掠めると、胸へと触れた。
固く目を閉じ、声を漏らすまいと唇を引き結んだ飛雄馬だったが、尖りつつある突起に触れられ、全身を震わせる。花形の指が上ずるにつれ、たくし上げられたシャツは汗に濡れていた。
目を閉じていても、花形の視線がこちらに向いていることは嫌でもわかる。幾度となく、打席からこちらを見据えてきたあの目。心臓が馬鹿に高鳴っている。嫌悪感からか、それとも。
花形の指先が突起に触れ、軽くそれを捻った。
甘い痺れが、そこから全身に走って、飛雄馬は花形に跨られた下で立てた両膝をすり合わせる。
「下、脱ごうか」
ほとんど無意識に、膝をすり合わせていた飛雄馬は花形の言葉で己の男根が下着の中で熱く、張りつつあるのを自覚した。
「何故、脱ぐ必要が……」
「辛かろう、そのままにしていては。難しいなら手伝うが」
「自分で、それくらいっ……!」
スラックスを留めるベルトを緩め、飛雄馬は腰を浮かせると下着諸共を足から抜いた。
そうして、ほんの少し己の体温を宿したベッドの上に両足を投げ出した刹那に、花形の口車にまんまと乗せられたことを察する。
嫌だ、と拒絶するべきだったのだと、選択肢を誤ってしまったことに気づいたときには既に遅く、膝を立て、開いた足の間に花形の体を受け入れてしまっていたのだった。
「すぐ感情的になるのは相変わらずのようだね」
身を乗り出し、花形は右手の人差し指を飛雄馬の口元に寄せる。
「…………」
「咥えて」
曲げた指の関節が、飛雄馬の唇をなぞった。
飛雄馬は答えないまま、少し顔を逸らす。と、引き結んだ唇の隙間に指が捩じ込まれ、歯に触れる。
「っ、く…………」
「歯を立てないでくれたまえよ。ぼくとて手荒な真似はしたくないからね」
今更、どの口がそれを言うのか。
震える唇を開いて、受け入れた花形の指が舌の表面を撫でる感触に飛雄馬は身震いし、露わとなった男根が垂らした液体がとろりと己の腹を濡らすのを感じた。
「ふ……っ、ぅ……ん、ん」
上顎を撫で、頬をくすぐる指が二本に増え、舌を挟む。
僅かに開けたままとなった口からは唾液が垂れ、花形の指と飛雄馬の顎を濡らす。
「本当に噛まんとはね。フフ、こちらとしては歯を立ててくれてもよかったのだが……」
花形は唾液に濡れた指を引き抜くと、飛雄馬の開いた足の中心、尻の窄まりへとそれを這わせた。
「花形っ……!!」
「痛いのは飛雄馬くんも嫌だろうに。いや、きみの場合、そっちの方がいいかね」
揶揄するように囁いた花形は躊躇することなく、指を飛雄馬の中へと挿入していく。
唾液に濡れた指を難なく飛雄馬は受け入れ、その異物感に呻いた。直ぐさま、二本目の指が入り込んできて、飛雄馬は体を戦慄かせた。
戦慄いたことで下腹部のものから垂れた体液が腹へと滴る。立ち上がった胸の突起はずきずきと疼いて、更なる刺激を切望している。
「う、うぅっ……!!」
「焦らすのはよしてくれ、と、そう言いたい」
「…………!」
花形の言葉に、飛雄馬はいつの間にか涙の滲んだ瞳で彼を睨む。
「なに、わかるさ。きみのことなら、手に取るようにね」
半ばまで挿入した指を奥まで突き入れると、花形は飛雄馬の入口を解すようにゆるゆると抜き差しを繰り返す。
「っく、ぅ……っ……」
与えられる刺激に体は震え、噛んだ唇の隙間からは声が漏れた。飛雄馬の立てた膝はゆらゆらと揺れ、足の指先は快感を堪えるべく固く縮こまっている。
と、花形は指を抜き、膝立ちになると、ベルトを緩め、スラックスのファスナーを下ろした。
それら一連の動きを意味する音が耳に入り、飛雄馬は、腕で顔を覆うと、強く奥歯を噛み締めた。
「こういうとき、何と言うか教わったかい?」
「…………?」
飛雄馬の開いた両膝をそれぞれの手で掴み、前傾姿勢を取った花形が問う。飛雄馬の腹の上には、花形の男根が乗った。
「だっ、誰に……何を……」
震え、掠れた声で飛雄馬は花形に問い返す。
無言。
これが答えとでも言うのか。飛雄馬は一度、唇を引き結んでから、口内に溜まった唾液を飲み下す。
全部、わかってしまっているのだろう、彼には、花形には。だからあえて、こんな意地の悪いことをするのだ。
「っは、はやくっ……早く、花形さんのをっ……」
それでも、この悪夢が、一秒でも早く終わるのなら。
「…………」
「こ、のっ……へ、んたっ……いっ……!」
花形が腰を引き、位置を合わせるとそのまま飛雄馬の体を貫いた。体が慣れる間もなく奥深くを抉られ、飛雄馬は背中を仰け反らせ、一息に与えられた脳を焼く刺衝に声を上げる。
今の衝撃で飛雄馬の男根からとろとろと放出された体液が腹を滑り、ベッドへと滴った。
頭の中は白く靄がかかったようになって、全身の神経がすべて花形と繋がった箇所へと集中する。
「心外だよ、飛雄馬くん。きみからそう言われるのは」
「っ──…………」
腰を押し付けられ、ぐりぐりと腹の中を掻き乱される。
飛雄馬は喉を晒し、浅い呼吸を繰り返した。
花形が腰を動かすたびに、飛雄馬の閉じたまぶたの裏で火花が散る。ゆるい快感が幾度となく与えられ、全身の感覚が研がれていく。
「腕をどけて」
吐息混じりに囁かれる声に、飛雄馬はびくん、と体を震わせた。言われるがままに顔を覆う腕を離し、大きく息を吐く。と、花形が顔を寄せる気配があったと同時に、唇へと何かが触れた感触があって、飛雄馬は口を開けた。
「っ、ふ…………」
口の中に入り込んできた舌に、飛雄馬もまた舌を絡め、花形の首へと腕を回す。吐息が混ざって、唇が唾液に濡れる。中を掻き回され、喘いだ飛雄馬の唇へと花形は再び顔を寄せ、そこに触れた。
それから何度、花形の下で絶頂を迎えただろうか。
もう嫌だ、と叫んだのが、体の上に跨るように言われ、朦朧とする中で下から激しく突き上げられたときであったか。
目を覚ましてみれば、花形は何食わぬ顔で身支度を整えており、朝から昨日の続きとばかりにウイスキーを煽っていた。
「…………」
「ゆっくりしていたまえ。部屋は二日取ってある。まあ、ぼくは今から仕事だがね」
今何時だ、と尋ねた声は掠れており、花形に、なに?と一度訊き返される羽目となった。
間もなく、九時だよ、花形は答えると、背広の内ポケットから取り出した財布から万札を三枚、取り出し、テーブルの上へと置いた。
「これで何か食べるといい。今後の足しにしたまえよ」
「……夜の駄賃か?ふふ、慣れたものだ。ねえちゃんが知ったら──」
体を起こし、嫌味を口にした飛雄馬だったが、歩み寄ってきた花形の指が顎へと掛かり、力任せに上向けられたことで続きの言葉を飲み込まざるを得なくなる。
「あまりぼくを見くびらないでほしいね。いくら飛雄馬くんでも言っていいことと悪いことがある」
「っ、っ……どう、だか。口ではなんとでも言える」
「……人に抱かれながら違う男の名を口走るきみに言われたくはない」
「!」
かあっ、と飛雄馬の頬が赤く火照る。馬鹿な、そんなはず────。
「冗談、フフフッ……安心したまえ。きみはちゃんと見ていたよ、この花形をね」
「…………」
「また会おう、星、飛雄馬くん」
薄くなったテーブル上のグラスの中身を飲み干すと、花形は飛雄馬に目もくれず、部屋を出て行った。
行き場のない怒りと、己の不甲斐なさから飛雄馬はベッドの上に乗っていた枕を投げた。
くそっ、と小さく叫んで、かいた汗を流すべく、床に足を着くが、よろよろとその場にへたり込む。
「ふっ……ふふっ……」
ベッドに縋るようにして身を預け、飛雄馬は笑い声を上げる。まんまと花形の策略に乗せられ、何ということをしでかしてしまったのか。
愛している、だって──?それこそ、ねえちゃんという人がありながら──。
飛雄馬はベッドを支えに立ち上がると、ふらふらとよろけつつも浴室へと向かい、花形の痕跡も、抱いた疑念もすべて洗い流すがごとく頭から熱いシャワーをかぶる。
そうして、浴室を出てから、体を拭き、椅子にかけられていた衣服一式を身に纏った。
テーブル上では、グラスの表面に滲んだ水滴が三枚の万札を濡らしつつある。
「…………」
氷が解け、水が半分ほどを満たすグラスの中身を飲み下し、飛雄馬は濡れた万札を尻ポケットに押し込む。
もう二度と、会うこともないだろう。
一刻も早く、この町を発たなければ。
ふと、辺りを見回し、ベッドの枕元に置かれていた野球帽とサングラスを手に取った。
飛雄馬はしばらく、サングラスのレンズに映る己の顔を見つめていたが、それらを身に着けると、部屋を後にする。誰もいなくなった部屋で、空になったグラスの中の氷が小さく、音を立てた。