ひとりぼっち
ひとりぼっち ただいま、と飛雄馬は今日のデーゲームを終え、帰宅したところで誰もいない、がらんとした室内に向けてひとり呟く。
朝、出ていったときの状態のまま、何の変化もない部屋。
ああ、洗濯物も溜まっている。
掃除機もかけなければ部屋の隅には埃が固まってしまっている…………。
飛雄馬はひとまず、汗に濡れたYGマークの帽子を取ると部屋の真ん中に置いたソファーにどっと腰を下ろす。
今朝、朝食を食べた食器類も流しにそのまま残っている。
汚れたユニフォームだってすぐに泥を落とし洗濯しなければ、こびりついて取れなくなってしまう。
巨人軍の選手たるもの薄汚れた格好で試合に出るわけにはいかない。
川上監督から譲り受けた背番号を汚してはならない。
頭ではわかっているのに、体がついてこない。
ソファーに座ったまま、指1本動かすことができないほどに疲れきっている。
精神的にも、肉体的にも。
飛雄馬は目を閉じ、ふと、なんの気なしに親友の名を呼んだ。
応答がないため、もう1度彼を呼んでからそこでハッと我に返る。
ああ、もう、ここにはおれひとりしかいないのだ。ついさっき、ほんの数分前に誰もいない部屋に向かってただいまと言ったばかりなのに。
中日のユニフォームに身を包んだ彼の──伴の何と勇ましかったことだろう。
飛雄馬は再び目を閉じると、デーゲームの対戦相手であった中日ドラゴンズの伴宙太を脳裏に思い描く。
彼は本来ああ有らねばならなかったのに、おれは伴の好意に甘えてしまっていたのだ。
伴を支えているつもりが、支えられていたのはおれの方だったらしい。
飛雄馬はそのままソファーの座面に崩れ落ちるように横になり、ゆっくりと体を侵食してくる睡魔に抗うこともなく身を委ねる。
このまま寝てしまっては何よりも大事な肩を冷やしてしまう。
しかして、その意識さえ次第に遠退いていく。
ねえちゃんの行方は依然として知れない。
どこかで元気にやっているのだろうか。
おれやとうちゃんと縁が切れて清々しているだろうか。
花形との仲はあれからどうなったんだろうか。
明日の試合の先発は……そういえば目覚まし時計はセットしただろうか。
ああ、だめだ。
もう、起きてから考えたらいい。
食事だって、その後でいい。
と、そのまま寝入ろうとした刹那、玄関のチャイムがけたたましく鳴り響いて、飛雄馬は弾かれたように飛び起きた。
「…………!」
何事か、と再びチャイムの音を奏でた玄関扉の方に視線を遣って、飛雄馬はソファーから絨毯敷きの床に足を下ろすと立ち上がって、ふらふらとそちらへと歩み寄る。
期待しなかった、と言えば嘘になる。
もしかしたら、と、一瞬でも、そう思ってしまった自分がいて、飛雄馬は馬鹿なことを、と自嘲してから震える声で、はい、と厚い金属製の扉の向こうにいる何者かに返事をした。
「お届け物です。すみませんが、サインをお願いします」
「……………」
扉越しに聞かされた言葉に飛雄馬は握った冷たいドアノブが、自身の手の熱でぬるく温まっていく気味悪さに苦笑いを浮かべてから、扉を開ける。
「あれ?」
すると、扉を開けた先にいたのは間違いなく宅配業者の人間であったが、荷物の宛先と飛雄馬の顔を見比べ、「こちらはヤマダさんの部屋ですか?」と尋ねてきた。
「…………うちはヤマダでは、ない、ですね」
「あっ、星?巨人の、星?あ、いや、マンション名が違っている……すみません。先週、働き始めたばかりで──」
宅配業者の男は恥ずかしそうに頬を染めつつ、小さく頭を下げる。
しかして、まさかの巨人の星との対面に興奮したのかめちゃくちゃなことを口走りながら胸や尻に手を遣ってから、ようやく見つけたメモ帳にこれ幸いとばかりにサインをねだった。
「…………」
飛雄馬はメモ帳とペンを受け取ると自分のサインを記してやってから、本来の送り先であるマンション名を尋ねる。
そちらはクラタケマンションとかいう名で、住所もここ中央区からは遠く離れた場所にあって、なぜ宅配業者の彼が間違えたのか不思議なくらいであった。
いくら新人とは言え、こんな間違いをするだろうか。
飛雄馬は何度も頭を下げ、謝罪の言葉とお礼の文句をそれぞれ交互に繰り返しながら去っていく宅配業者の彼を見送ってから扉を閉める。
それにしても、おかしなこともあるものだ、と飛雄馬は思い出し笑いをしながら、ソファーの置かれたリビングに戻ってからテレビのスイッチを入れる。
眠気も覚めたことだし、洗濯でもしてしまうか、と考えつつ、飛雄馬が視線を遣った先に映し出された音楽番組。
ちょうど売り出し中のアイドルが歌い始めたところで、飛雄馬はそのメロディを聞きながら、ああ、この歌は伴が好きだと言っていたものだ──と、唇を引き結ぶ。
色々なことを、伴と共有しすぎて身の回りすべてを彼に結びつけてしまう。
それでは辛いとわかっているのに。
「……………」
ああ、テレビから流れる歌声が、伴の声とだぶって仕方がない。
飛雄馬はテレビの近くに歩み寄って、スイッチを切ろうと手を伸ばす。
サビの部分がちょうど、自分の心境と重なるようで飛雄馬は込み上げてきた涙をぐっと堪えてから電源を切ると、籠の中に溜まった洗濯物を片付けるべくふらふらと脱衣場の方に向かった。