十七歳
十七歳 「み、美奈さん!」
想い人の姿を、待ち合わせ場所に指定した商店の軒下に見つけた飛雄馬は、彼女の名を口にするなり駆け出す。道行く人は何事かと振り返り、飛雄馬の顔を見つめるが、今の彼にとってはどうでもいいことであった。小雨の降る、夕暮れどき。
傘を差す人もちらほらと見受けられる。
「ふふっ、星さんったら……」
あちらも飛雄馬の姿に気付いたか、にこりと微笑を浮かべた。
「す、すみません……お待たせしてしまって……」
額に浮かんだ汗を拭いつつ、飛雄馬は目の前にいる彼女に頭を下げる。くすくすと笑い声を漏らす彼女は、手にした赤い傘を差すと、どうぞ、と飛雄馬にそれを差し出した。
「えっ!?」
差し出されたことで飛雄馬は雨が降っていることに気付いて、しまった、と顔を青くする。
宿舎を出たときには雨は降っていなかったのに。
走っていたせいかまったく気が付かなかった。
どうすべきか。近くに傘を売る店はあっただろうか。
考えあぐねていた飛雄馬に、彼女は優しく微笑み、一緒に入りましょう、と、囁いた。
「……はい」
彼女の──美奈の言葉に一瞬、飛雄馬は固まったが、小さく頷くと、差し出された傘を受け取り、彼女の隣を歩く。いつにも増して距離が近い。
呼吸をするのもためらってしまう。山奥の診療所にいるせいだろうか、美奈さんはとても色が白いのだ。
長いまつげが瞬きのたびに揺れているのが目に入って、鼓動が馬鹿に速くなる。飛雄馬は話をするのもままならないまま、黙って彼女の隣を歩いた。
「せっかく星さんにお会いできたのに雨だなんて」
「宿舎を出たときには降っていなかったから……油断していました」
「いえ、お気になさらないで。ふふっ、星さんと相合傘ができて美奈はとても嬉しいの」
「…………」
それは、おれも同じです、の言葉を飛雄馬は飲み込み、どこに行きますか?と尋ねる。
「喫茶店なんてどうかしら。沖先生がお気に入りらしいの」
「きっ、喫茶店、ですか」
「お嫌い?」
「いえ、そんなことは……」
慌てて取り繕い、飛雄馬は傘の柄を持つ手の力を強める。女性用の傘は男物のそれよりやや小さいようで、美奈さんが濡れないようにと思うと、自身の肩が濡れてしまう。肩を冷やすなとコーチや監督からは散々言われているのに、美奈さんとの逢瀬に舞い上がり、この様だ。自己管理能力のなさに気分が落ち込む。
「…………」
すると、隣を行く彼女がじっと自分の顔を見つめていることに気付いて、どうしました?と飛雄馬は尋ねた。
「肩が、濡れてらっしゃるから。投手は肩が大事だと聞いたことがあります」
「…………!」
「もう、着きますわ」
美奈は言い、少し、歩調を速めた。
飛雄馬もそれに続き、歩幅を広く取ると、彼女の後に続いて喫茶店の中へと入った。
店員に席を勧められ、ふたり、向かい合わせにテーブルに着くと、飛雄馬は濡れた肩をさする。
と、美奈がハンカチを差し出してくれ、飛雄馬は、大丈夫です、と一度は断ったが、強い眼差しに射抜かれ、そのままそれを受け取った。
「すみません……洗ってお返しします」
「いいえ。もらってください。使い古しで悪いけれど……」
「…………」
受け取ったハンカチで拭う肩が、ほのかに熱を帯びるようで、飛雄馬はまともに対面にいる彼女の顔が見られない。
「あたたかいコーヒーを先に、それとケーキのセットを」
席の近くを通りがかった店員に美奈は注文を告げ、ごめんなさい、とぽつりと溢した。
「そ、そんな……美奈さんが謝ることでは……おれがうっかりしてたんです。美奈さんに会えるのが嬉しくて雨が降っているのにも気付かず……あ、いや!」
「喜んでいいのか、わからないけれど……そうおっしゃっていただけるのは素直に嬉しい」
「う……」
かあっ、と全身が熱くなって、飛雄馬は運ばれてきた冷水入りのグラスを一息に飲み干す。
店内は騒がしく、誰ひとりとして飛雄馬の姿に気付く者はいない。ユニフォームを脱げば、人間こんなものだ。人に紛れ、街の雰囲気に紛れ、巨人の星としてではなく、ひとりの人間、男としていられる。
それだけでホッとする。そう、美奈さんといるとホッとするのだ。結果だけが物を言う、プロ野球界で生きるおれにとって、美奈さんとの時間だけが唯一、心穏やかにいられる。
「明日に響かないといいけれど……」
「だ、大丈夫です。これくらい」
「…………」
「星さんといるとホッとするの。どうしてかしら。看護婦としてではなく、日高美奈、としていられるからかしら」
「えっ」
「お待たせしました。ケーキセットのコーヒーです」 口ごもった飛雄馬の前に、店員の手によりソーサーに乗せられたコーヒーカップが置かれる。
どういう、意味だろう。美奈さんは、もしかしておれの心が読めるんだろうか。まさか、同じことを考えているなんて。看護婦として診療所で働く美奈さんの姿を見たことはないけれど、やっぱり、そのときとは違うんだろうか。
ミルクを少しと、角砂糖をひとつ、コーヒーカップに沈めて、飛雄馬は中身をスプーンで掻き混ぜる。
それから口を付けたコーヒーはあたたかく、そして甘い。
「年相応の、十七歳の美奈でいられる気がするの。なんて、世の中の十七歳のことなんてわからないけれど」
「おれも、同じです。さっきの相合傘のこともそうですけど、美奈さんはもしかしておれの心が読めるんだろうか、とそんなことを考えてしまって……巨人の、星としてではなく、等身大のおれでいられるというか……美奈さんは、おれを巨人の星としては見ないから……」
「うふふ。同じね、星さんと美奈は」
「…………」
同じ、と言われたことが嬉しくて、飛雄馬は思わず赤面してしまう。それを察したか、美奈はくすくすと笑みを溢し、飛雄馬は気恥ずかしさから俯いた。
ケーキの皿が目の前に置かれても、顔が上げられず、飛雄馬は額に浮いた汗を拭うこともできなかった。
「どうぞ、星さん。召し上がってください」
「は、はい……」
言われ、飛雄馬はようやく顔を上げると、汗を掌で拭ってからフォークを手に取り、ケーキの尖った端を少量、切り取る。
そのままフォークの先を突き刺したケーキの一片を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
甘さ控えめの、ショートケーキ。
艶々とした苺が目を引く。
「どうかしら。沖先生ったら見た目に似合わず甘いものには目がないの。それでいてお酒も好きなんだから……」
「ふふふ……」
見た目に似合わず、か。
確かに沖先生の外見からはあまり、そういったものが好きなようには見えないな、と飛雄馬はしばらく前に会った彼の顔を思い浮かべ、微笑する。
「よかった」
「え?」
「星さん、会ったときから元気がなさそうだったから……ごめんなさい。職業病かもしれないけれど、気になってしまって」
「美奈さん……」
「星さんには笑顔が似合うわ。こちらまで元気になれるもの……ふふっ、初対面で頬を張った美奈が言うのもおかしいわね」
「そんな、あれは……おれが悪いんです」
「美奈、誰かの頬を張ったのはあれが初めてです」
「…………」
初めて、か。なんとも甘酸っぱい響きだ、と飛雄馬はケーキを口に運び、コーヒーで喉を潤す。
これから先、たくさんの初めてを、美奈さんと共有できたらいいなと思う。いつか東京の街を案内したい。
いろんな場所をふたりで回って、思い出をたくさん作りたい。
「星さん、今日はどうもありがとう。付き合っていただけてとても嬉しかったわ」
「そんな、それはこちらの台詞です。ケーキ、とても美味しかったです。沖先生にもよろしくお伝えください。もちろん、患者の皆さんにも」
「ええ。伝えておきます。会計は美奈が持ちます」
「いえ、おれが出します。それくらいさせてください」
完食後に席を立った美奈に対し、飛雄馬は強い口調で言うと、伝票片手にレジへと向かう。
そうして、支払いを済ませてから出入口の扉から外へ出ると、雨は上がっており、空には大きな虹がかかっていた。
「まあ、虹……」
「雨、上がりましたね」
「……星さん、このお礼は今度させてくださいね、必ず」
「い、いや、お礼なんて。素敵なお店に連れてきてくださって礼を言うのはこちらです。それにハンカチまで……」
「とんでもない。肩は大事になさって」
「はい」
「それでは、また」
「……はい」
行かないで、と言えたらどんなにいいだろう。
けれど、おれと美奈さんは住むべき、そして、生きるべき場所が違う。
おれが宮崎に、美奈さんが東京に産まれていたら、時間も曜日も何も気にせず、会うことができただろうか。同い年のふたり、同じ学校の、同じクラスで、他愛もない話で盛り上がることができただろうか。
そんなことを考えても、どうしょうもないのはわかっているが、名残惜しくて堪らない。
美奈さん、今度はいつ、会えるだろうか。
飛雄馬は閉じた赤い傘を手に、去っていく彼女の後ろ姿をしばらく見つめていたが、自分もまた、雨上がりの宮崎の街を、巨人軍の宿舎に帰るために、ひっそりと歩み始めた。